19才



 大学生になって、お酒を飲むことも増えた。俺まだ19なんですよーと言ったって先輩たちはお構いなしに飲ませようとしてくる。そうして自分もそのグラスを空にしてしまうのだった。

「うあー……」

 今日の酔い方は最悪だ。地面がやわらかくて足元がふわふわ、気分もふわふわで眠たい、そういうのが良いのだ。でも今日は最悪だった。頭が痛い。意識がはっきりしている。自分が今酔っているのが身をもってわかるかんじ。はあ、吐きそう。

「今日ほんとだめだ、先輩ごめんなさい、帰らせてもらいます…」
「大丈夫か?珍しいな」
「んーちょっと具合悪かったのかも…すいません」
「気をつけろよ、タクシー拾ってくるか?」
「あー……、近いんで大丈夫です」

 3こ上のこの先輩はとても優しくて頭もよくてお酒にも強い。ほんと、かっこいい人ってなんでも持ってるもんだ。世の中ってまったくもって不平等。荷物と上着を持って立つと、靴を履いて居酒屋を出る。三日月を見上げた後、明日が休みで良かった、そう思いながら微妙な足取りで歩きだす。そうすると居酒屋の戸が開く音がして、さっきからまったく酔った様子のない先輩に呼び止められた。

「なんですか?」
「ごめん、こいつお前と同じアパートなんだけど、連れてってくれるか」
「え、はい……?」

 先輩に支えられて眠たそうに頭を垂れたまま立っているのは、隣のテーブルで飲んでいた先輩だった。起きたのか。

「矢巾」
先輩、ほら、一緒に行くから帰りましょう」
「んー」

 今度は俺のほうに傾れると、ふにゃふにゃと笑った。まっしろい肌が上気していて、染まる頬と真っ赤な唇に目が行く。きれいな先輩は、ちょっと、正直、色っぽい。そんな考えを振り払うように少し頭を振るとこの世の終わりのように頭が刺すように痛んだ。泣きそうにはなったけど、へんな考えはひとまずどこかへ行ってくれたみたいだった。「もー、歩けます?」と先輩の肩を抱くように支えて歩き出すも、笑顔と口もとのようにふにゃふにゃした体がずるずると崩れてしまいそうで、先輩の左腕を自分の肩にまわして肩を組むようにして歩き出した。

先輩お酒弱いんだ……」
「矢巾だっていつもべろべろだべやあ」
「やーそんなことは……」

 飲み会で先輩と話すことってないのに、それでも覚えられてるほど悪酔いしているのだろうか……。これからはちょっと気を付けよう。

「ふふ」
「え、なに、笑った?」
「んー?うん、おれ、矢巾のにおい好き」
「なに言ってるんですか……」

 肩口に頬を寄せられて、心臓がはねるのを感じた。先輩の体からはどんどん力が抜けている感じがして、少しずつ重くなっていく。はやく行きますよ、と腕を担ぎ直すと、なぜだか先輩は拗ねたように唇を尖らせた。わけがわからない。酔った先輩はますます扱いの難しい人になるということを学んだ。


先輩、部屋どこです?」
「うん……」
「うん、じゃなくて」
「さんびゃくはち」
「2こ隣だったんだ……知らなかった」

 先輩の部屋は3階の端だった。しかも知らなかったけど2つ隣の部屋だった。先輩を部屋の前まで送り届けて「鍵は?持ってます?」と聞くと、ごそごそコートのポケットを漁って4つくらい鍵のついたキーホルダーを取り出した。その中から一つ選ぶと「うん、ある」とわざわざ俺に見せてくれた。

「うん、大丈夫ですね。じゃあ俺戻りますけど」
「んー、ありがとう、やはば」
「いえ、ちゃんと布団で寝てくださいよ」
「ふふ、やさしいなや、やはばは」

 そう言った先輩の笑顔はさっきまでのふにゃふにゃしたものではなくて、きれいな弧をえがくあかい唇とか、細くなる目とか、ほんまにどきりとさせられる。まちがったことを思いそうで、申し訳ないけれど「おやすみなさい」と言うとその場を離れた。さっさと戻って部屋に入るとコートを脱ぎ捨てながらベッドに倒れこんだ。はあ、ほんと、だめだ。あんなに近くで先輩を見たのは今日が初めてだった。知っていたよりもずっとずっときれいだった。先輩を連れて帰りながら、すぐそばにある顔を見るたびに、長い睫毛だとかふっくらとした唇だとかに気を取られてしまって、なんで今こんな状況になってるんだろ、と何度も思った。

「だめだ、俺、だめだ」

 自分にそう言って、ゆっくりと起き上がる。頭が痛い。シャワーは明日にしよう。とりあえず、煙草のにおいの染みついている服を着替えたい…。なかなかうまくまわらない頭でゆっくりと考えながらベッドを降りた。窓のそばを通ると、どうやら雨が降りだしたらしい。先輩大丈夫だろうか…ちゃんと部屋入ってるといいけど。

「……や、送ってくって先輩に約束したしな」

 声に出してしまったのは、ほんとうはちょっとした言い訳だったからなのかもしれない。もしも先輩があの場で寝てしまうなんてことがあったら雨に打たれて風邪をひいてしまうから、だからちゃんと部屋に入ってるか確かめに行くんだ、うん、そう。それだけ。途中脱ぎ捨てたコートを拾ってハンガーにかけていると呼び鈴が鳴って、人が決断したときになんだよ、と思いながらドアを開ける。ドアノブが動いてがちゃりと鳴ってから、こんな時間に何も確かめずにドアを開けるのはちょっと不用心すぎた、とはっとするももう遅くて、そのままドアは開いた。つめたい空気が流れ込んで、雨の音が大きくなる。

「えっ、せんぱい」

 そこにいたのは先輩だった。あかい頬のまま、ぽーっとした顔で、誰が見ても「今酔ってるね?」っていう感じ。その少し影を落とされたひとみがおれをとらえたのがわかった。「やはば」と笑った顔はやっぱりふにゃふにゃしている。

「戻らなかったんですか」
「んー、んだな」
「雨も降ってきてるのに……、一緒に行きますから、ちゃんと部屋に、」

 右足を靴に伸ばそうとした途端に、うしろに倒れこみそうになるほどのやわらかな衝撃があって、右足をうしろについて体を支えた。バタンと音を立ててドアが閉まる。目を見開く。う、わ、え、なんで?あんなにまわらなかった頭が、ばかみたいにくるくるとまわって、小さく火花が散るみたいだった。そのまま脳が溶けてしまいそう。何が起こっているのか理解できてもなんでこんなことになっているのかが全然わからない。口の中を這いまわる先輩の舌が離れて唇に息がかかったとき、まっしろだった頭が色を持ち始めた。先輩の、うすく涙の膜を張ったひとみに目を奪われながら、まっかな唇が視界の端にちらつく。そうしてその唇はゆっくりと引き結ばれて、さっき見た三日月みたいに弧を描いた。首のうしろにまわされたままの先輩の腕の、肩にかかる重みが、これはほんとうのことだと教えているみたいだった。

「矢巾はやさしいなあ」
「、え」
「知ってるよ」

 知ってる、知ってるよ、おれだって、
 先輩はいつだって顔の見えるところに座っていたから。視線はいつだってほんの一瞬しかぶつからなかったから。いままでほんとうならばなんにも知らなかったはずのことも、今日だけすこし微笑みかけてくれたことも。
 知ってたよ、知ってるよ。
 知らんぷりしてた大キライなおれも。

、せんぱい、」
「あつい」
「え」
「やっぱりおれ、飲みすぎだったと思わん?」
「……おも、う」
「ふふ、酔ってよくわからんなや」

 そう言って先輩がキスをすると、うまく酔った日のように足元が軽くなるみたいだった。また一歩うしろにつく。雨が強くなっていた。