今夜、星が降る気配



 例えば、彼女が誰かの話を聞いて笑っているときに、俺にもその笑顔を向けてほしいだとか、毎日つま先から髪の毛までキレイに手入れされた姿が俺のためだったらいいのにだとか、そういうことを考えてしまうのを恋と呼ぶのなら、俺はきっと彼女のことが好きなんだと思う。
 もう俺もいい大人だから、惚れた腫れただとか付き合う付き合わないだとかそういうことにこだわりはなかったし、恋なんて言葉からして青臭いとさえ思う。なのに、彼女がそこにいるだけでなんとなくホッとして、「宇内さん」と名前を呼ばれるたびに心臓の底が苦しくなって無性に触れたくなってしまって、ああこれは恋してるんだな、って自分の中に星みたいなキラキラした熱いものがすとんと落ちた。
 と、月島さんに言ったら、「ロマンチックだな~……」と若干引いたように言われてしまったので、これはもう絶対に口外しないと誓った。ロマンチックもクソもあるか、そもそも恋自体がロマンチックの権化でしょうが!……って、こういうことを考えてるからロマンチックとか誂われるのか。これ、月島さんだからこれで済んでいるけど、田中だったらもっとひどかっただろうな。うわ、考えるだけでゾッとする。自分が怪我する前にやめておこう。

「あ!……お久しぶりです」
「えっ?……っあ」
「う、じゃなくて……ええと」

 珍しくちょっと〆切に余裕ができたものだから、編集部近くのビルに入っている、ワンフロアぶち抜きの少しおしゃれな雑貨屋へ足を向けた。仕事柄家に籠ることが本当に多いので、少しは清潔感を意識して部屋に芳香剤なんかを置いてみようと思ってのことだった。遺憾ながら打ち切りになってしまったゾビッシュ連載時ならいざ知らず、今となっては俺の名を人前では気軽に呼べないので、常陸さんは少し躊躇いながらも「おはようございます……」と律儀に挨拶してくれる。広い店内と言えども偶然会うとか、これ俺なんか運がキてるんじゃないか。深く帽子を被ってマスクをしていて、パッと見だとなかなか誰か分からないはずなのに、常陸さんが見かけてすぐ気付いてくれたことも嬉しかった。
 常陸星晶さんはサブカルチャーのメディアコンテンツを主に取り扱う、出版社のインタビュアー兼ライターさんだ。今となってはメテオアタックがアニメ化して控えめに言ってもヒット作と呼ぶに相応しいものになったけれども、彼女はゾビッシュ連載開始当初から個人名義で取材のコンタクトを取ってきた奇特なひとでもあり、それを現在は出版社経由とはいえコンスタントに続けてくれている律儀なひとでもある。赤葦さんに言わせれば、彼女は俺のフォロワーらしい。近年は紙媒体用に受けた取材の内容がWEBに抜粋転載されることも増えてきているから(文字数制限が緩くて気軽にアクセスしやすく、閲覧数が目に見えて分かりやすいのは当然WEBの方だけれど、出版社の都合的には紙媒体の売り上げもそれなりにキープしたいらしい)、掲載誌面の確認で連絡を取り合うことも少なくない。

「偶然ですね。お買い物ですか?」
「あっ、えーと、……芳香剤を買おうと思って」
「芳香剤……お部屋のですか?」
「そう、です」
「そうなんですね……ってやだ、ごめんなさい、プライベートなのに質問しちゃって……」

 恥ずかしそうに口元を手で抑え、すみません、と会釈するように頭を下げてくれる常陸さんに、「いや、別に……」と気の利かないもにゃもにゃした返答しかできないのが情けない。「職業病みたいなもので、つい質問してしまうんですよね」と常陸さんは苦笑する。でも俺はインタビューしているときの常陸さんを「いいな」と思ったから別に気にしていないのに、常陸さんは恐縮しきったように謝り続ける。いいですいいです、と両手を振ると、ようやくへにゃりと緩く笑った。
 恋、という危なっかしくてヒリヒリするようなものを経験するのは本当に久しぶりで、こんなに辛くて幸せなものだったかとこの歳になってひしひしと実感する。ただし俺は残念なくらい人見知りなので、自分からはまったく話しかけることはできないし話しかけられても面白いことも気の利いたことも一切言えはしない。好きなひと相手だから特にだ。
 こういうとき、田中や月島さんのコミュニケーション能力が羨ましいと思う。でも常陸さんも常陸さんで、インタビュアーなだけあって俺の引き出しを開けるのがうまい上に話題選びも上手なので仕事上はなんの問題もなく関われていた。そう、うまく関われているのは仕事上だけだ。インタビューが終われば常陸さんは俺とそんなに雑談する理由もないので、話そうとするには俺が広げる必要があるのに、うまく会話をつなげることが出来なくてそこで終わってしまう。今回もきっと、そうなってしまう。それだけは防ぎたい。だってこんな偶然、たぶん二度とない。これを逃したら絶対ダメだと思う。意を決して常陸さんに声をかけた。

「あ、の……常陸さんは?」
「あ、わたしも買い物です。ハンドクリームを」
「……ですか」

 会話終了。あーーー!俺!バカ!こんなに自分の人見知りを恨んだことはない!俯いて何とも言えない返事を返すと、常陸さんはきょとんと首を傾げている。ハンドクリームなら色々あるだろなんか!えーと何がある?
 「そんな手荒れてるようには見えないですけどね」手までガッツリ見てるのバレるだろ気持ち悪いわ。
 「いいの買えました?」お前に関係ねえじゃねえかよって思われたら辛い。
 「一緒に回りませんか」いやこれを言うにはまだそんなに親しくない……。
 どれだけ考えてもベストアンサーが思いつかない。こんなんだと常陸さんは帰ってしまう。うわ俺ほんと情けねー……。なんだか色々と考えすぎて辛くなってきて、ぎゅっと拳を握った。田中いっつもコミュ強を僻んでてごめん、今度会ったら会話の広げ方を教えてもらうことをたった今誓った。

「……、この前ある編集者さんにオススメして頂いたんですけど、通販で見つからなかったので買いに来たんです」
「あ、……買えました?」
「バッチリです、これでささくれも安心です!……すみません、引き留めちゃってますよね。お忙しいのに申し訳ないです」

 常陸さんが慌てて頭を下げるので、俺は「あっ、いや、それは、全然、大丈夫、です、」なんてカタコトで否定。自分がダサすぎてなんかもう泣けてきた。仕事だったら全然平気なのに!くそう!常陸さんが安心できるような言葉!言葉を何か……!

「……や、あの、……場所わかんなくてうろうろしてただけなので、平気です」

 なにが平気なんだよ平気じゃねえだろ、という意味のわからない返事をしてしまう。そんなに時間は気にしなくても大丈夫なことを伝えたかっただけなのに、どうしてこうもうまくいかないんだろうか。漫画にしたらうまく描ける自信があるのに、それをペンを介さず口で出そうとすると急にダメになる。

「そうだったんですか?あ、じゃあもしよければなんですけど、売り場知ってるのでご案内しましょうか」
「えっ?」
「本当によければ……なんですけど。ちょっと説明しにくい場所にあって……」
「あ、え、ぜひお願いします!」

 これはチャンスだ!と思ってそう答えると、常陸さんはぽかんとした。あっバカやっちまったー……。めちゃくちゃ食いついたからまるでそれを催促したみたいになってしまった。恥ずかしい。「……や、あの……」ともぞもぞ言い訳をしようとすると、常陸さんはふふっと優しく笑って「こっちです」と先を歩き始める。常陸さんもなにか思うところはあるだろうに、優しく見ないふりをしてくれている。優しい。好き。対して俺、酷すぎる。田中だけではなく月島さんでさえ引きそうなレベルのヘタレっぷりを自覚し、はぁ、と常陸さんにバレないようにため息をついた。

「ここにはよく来られるんですか?」
「そんなには……?あ、いつもは家の近くのところに行くんですけど」
「なるほど……ああ、じゃあ今日来られたのは打ち合わせ帰りとかですか?」
「あ、そうです。……編集部に寄ったので、合間にちょっと」
「合間ですか!本当にお忙しいんですね」
「や、……よくわかりましたね」
「ふふ、ハンドクリームをオススメしてもらった編集者さんも合間によく来るって仰っていて、それで」

 順調に話を繋げていけていることに内心ガッツポーズをしていると、また常陸さんから編集者さん、という言葉が出ることに少し引っかかる。何となく面白くない。……誰なんだろう、確実に俺より常陸さんと親しげにしている様子が見て取れる。ハンドクリームをオススメなんて、普通、他社のライターと編集者間でそんなになさそうだし。恐る恐る「編集者さんって……」と訊いてみるだけでも、大量の勇気を消耗した。常陸さんは、「ええと……そうですね」と少し言いにくそうに口を噤んで。えっもしかして付き合ってたりする?悪い意味でどきどきしながら返事を待つ。

「その……赤葦さんで」
「……赤葦さん」
「はい。できるだけ内密に……ということだったんですけど」
「内密……です、か」
「そうなんです。……なんでも、わたしと赤葦さんがそういった話をしているのがバレると厄介な方が身内にいると仰って……」

 彼女さんとかですかね、プライベートのことなのであんまりその辺りは突っ込んじゃいけないかなと思って……、と少しだけ申し訳なさそうに話す常陸さん。いや大丈夫です、恐らくその厄介な奴は俺のことです。誰にも言っていないはずなのに、俺が常陸さんに好意を持っているのはなぜか編集部全体に伝わっているらしく、そこで赤葦さんが気を遣ってくれたんだろうけれども言い方ってもんがあるでしょうよ言い方ってもんが!
 宇内さんだから大丈夫だとは思いますけど、内緒にしてくださいね、と眉を下げて微笑んでから「ここです」と目的地に案内してくれる。芳香剤やアロマなんかが置かれているコーナーには形から香りから種類が色々ありすぎてよくわからず、手に取る前からちょっと躊躇うと、それに気付いて「どんなタイプがいいとかあります?」と訊いてくれた。倒しても大丈夫なやつで、と言うと、じゃあこれとか、こういうのも、とタイプで選んでくれる。そのあと、香りについて教えてくれてようやく、俺は「これだ!」と思える芳香剤と出会い即購入した。

「ありがとうございました、……色々と」

 会話しにくいはずなのに広げてくれたり、コーナー教えてくれたり。とは言わないけれど。これはひとりで来ていたら気圧されて諦めて帰っていたかもしれない。常陸さんは「お手伝いできて良かったです」とやわらかに微笑んだ。いいひとだなまじで。惚れてまうやろ……というもう古いネタが脳裏をよぎったが、何とかかき消した。

「今から編集部戻られますか?」

 雑貨屋の入っていたビルを出たところで常陸さんがそう言って、もうすぐこのチャンスが終わってしまうことに気付く。本当にこれでいいのか、俺。案内してもらって買い物手伝ってもらって終わり?……常陸さんは、だって、俺のこと少しも意識していない。徹底された俺への気遣いから分かる、俺を仕事相手の漫画家としか見ていない。そんなの……。

「あのっ!」
「……はい?」

 勢いだけで何も考えず呼び止めると、存外大きな声が出てしまったので慌てて口を押さえた。常陸さんは不思議そうにしながらも、視線で促して俺の言葉をずっと待ってくれている。恥ずかしいだとか情けないだとかそういうのを怖がっているせいで、俺は好きなひとを笑顔にすることさえできないまま、終わりたくなんかない。

「ご飯でも行きませんか、……今日のお礼に」

 声に出すと、今度はびっくりするほど小さくなってしまった。蚊の鳴くような声ってこんな感じのことを言うのだろうか。もはや空気清浄機の稼働音みたいな弱々しさだった。こんなのどれだけぶりだよってくらい久しぶりに顔が熱くて、常陸さんの顔が見られない。結局尻込みして、最後に言い訳をしてしまった、でも、言えた。常陸さんは少しだけ考えるように間を置く。急だから引かれたかな。それとも彼氏がいたりするんだろうか。今、何を考えているんだろう。

「そんな、お礼なんて……!ほんとに大丈夫ですから」

 あっこれもしかして伝わってない?下手な言い訳をしたせいで湾曲して伝わってしまっているみたいだった。常陸さんはそんなそんな!とずっと謙遜している。申し訳ないですし、とまで。俺はもうさっきので勇気を使い果たしてしまったのに。それでも、ここまで来たらもう引き下がれない。絶対に逃げたくない。きっと赤いだろう顔をばっと上げて、常陸さんの手を握る。

「……俺が!常陸さんと……ふたりで行きたいんです、……って、言ったら、わかってくれますか」
「……えっ……?」
「だから……一回だけでも、いい、ので……」

 そこで声がフェードアウト。俺の顔を見つめる常陸さんの顔が、ぶわっと一気に赤くなっていくのを見て、だ。「えっ、……えっ?」混乱しているらしい常陸さんの目は潤んでいて、俺が掴んでいない方の手で口元を隠した。手が熱い。常陸さん、それ、期待してもいいんですか。俺が「常陸さん」と呼ぶと、常陸さんはあからさまに肩を跳ねさせた。

「本気……ですか」
「……本気です」
「う、宇内さ……あの、……」
常陸さん、――星晶さん。……もし、ちょっとでもいいなって思ってくれたら……連絡先、教えてくれませんか」

 常陸さんの手から、とうとうばさりと音を立ててカバンが落ちる。常陸さんが俺の言葉で真っ赤になって、手を震えさせていた。それがまるで、あの日落ちた星が俺の中で熱くなって、今、常陸さんに溶けて流れていっているみたいに見えた。
 ほら、月島さん、見てよ。やっぱ星だったよ。星晶さんのLINEホーム画像が星空の写真なのを見て、俺はそう思った。