防音設備なんて必要ないくらいに、ふたりきりの音楽室は静まり返っていた。言葉の湧き出る泉がいくつか僕の中にあったとして、それのうちひとつが彼専用の泉であるならば、そんなものはとうの昔に枯れている。いまさら何を話すことがあるのかというくらいに、僕たちは言葉を、心を、身体を重ねすぎた。
僕は手の中の紙パックをくるりと回した。誰もいない、彼がたったひとりで作り上げた音楽部の部室。ひとつ机を挟んだ、膝頭が触れあう至近距離。向かいの伊澄もひどく居心地が悪そうに調整豆乳のパックを鳴らす。ズズズ。食事中には咀嚼音がうるさいし、パックジュースを飲めばこうして音をたてる。不快極まりない幼稚な行動。それにすらすっかり慣れてしまって、注意をする気も起きない。無言で塩味の強い玉子焼きを噛んで、委員会の集まりがあると言って席をはずしたもう一人の帰還を、ただただ待ち望むばかりだった。
「ツッキーさあ」
飲みきったパックをご丁寧に畳みながら(彼曰く畳んだ時に現れる「たたんでくれてありがとう」の文字が見たいがための行動らしい)、伊澄は僕を見て首を傾いだ。目立ちすぎる金髪がゆれる。ツッキーというあだ名をつけたのは彼ではないけれど、山口以外で僕をからかうようにそう呼びだしたのはこの男だった。露骨に嫌な顔をしてみせると、眦を下げて笑う。
「月島はさあ」
「なに」
「おれのどこがすきなの?」
「は?」
眉根を寄せて聞き返せば伊澄はゆらぐことなく、凛とした表情のままで、だっておれのことすきだべ、と言った。
恐ろしく美しいひとだった。出会ったころは黒かった髪の毛、染めた金色も色白で目鼻立ちのはっきりした伊澄にはよく似合っているし、長い睫毛、血色のよい赤々としたくちびる、どこをとってみてもまるで人形のようなひとだった。ただ中身はどこまでも下世話で、幼稚で、だからこんなふうにデリカシーのない質問を正面から全力で投げてくる。僕はゆっくりと玉子焼きを飲み込んだ。
「僕が?お前のこと?」
「すきだべ?付き合ってるもん」
「なんなの、急に」
「ちなみにおれは、月島の目がすき」
ぷっくりとした涙袋の上で、色素の薄い双眸が細まる。「かっこいいっちゃなあ、ドーベルマンみたい」からかいの色が見られないのだからさらに戸惑う。「なに言ってるのお前」そう言うと、伊澄はさらに笑みを深くした。
花がほころぶような笑みだ、うつくしい。伊澄はうつくしい。こんなにもうつくしいひとが、世間から爪弾きにされてしまうような嗜好をもっていて、しかもそれは僕のせいだという。そんなことは伊澄が僕に好意を告白した数年前から変わらない事実であるのに、改めてつきつけられるとやはり、胸の奥のほうがずしりと質量を増す。罪悪感と、すこしの優越感だ。こんなにもうつくしいものを僕は掌の中に持っている。そしてこんなにもうつくしいものの中に、僕は存在しているはずだった。
僕の目が好き、と言ったきり伊澄は何も言わずに頬杖をついてにやにやとこちらを見ている。嫌いなところならいくつでも挙げてしまえるし、それによって伊澄の機嫌を損なうことだって容易い。おれのどこがすきなの?問うた彼はきっと僕の彼へ向けた感情について、なにかしらの不安要素を持っているのだろう。繊細な外見に稚拙で下世話な言動、しかし内包する性質は気が狂うほどに繊細なそれだ。僕の感覚では理解しえないほどに神経を張り巡らせている彼の生き方に、付き合うつもりはない。
彼の気に入りの目で彼を見つめた。目の奥の奥の方、想像通りに一握りの不安を見つけた、かもしれない。僕は目を瞑る。伊澄の好きなところなんて、ひとつに決まっている。キスをねだったのだと勘違いした彼が、ひとつ、キスをくれた。なんておめでたい男なのだと鼻で笑えば、彼は拗ねた声色でなんなのと言う。「伊澄の好きなところは、」ギィ、と防音扉の開く音がした。三人目のご帰還である。
「山口おかえりー」
「、っねえ、ほんとになんなの、ばかなの、しぬの」
なんとも間の抜けたことに、こういうときに限って自分はつくづくタイミングが悪いのだ。