飯食って寝ろ



 隠しきれてると思っているんだろうな、とぷとぷと注がれていくほの白い液体を眺めた。
 カーテンの隙間から入る陽ざしと、グラスの中のスポーツドリンク。

「クーラー切った?」
「切った」
「……ひどい」
「酷くねえって」

 汗ばんだ手がわたしに伸びて、孝支がかわいそうになった。孝支が着倒していたアメコミのかっこいいキャラクターがプリントされたTシャツを着たまま、わたしはおとなしく後ろから抱きしめられる。
 暑い、ばかみたいに。あんまりばかとか嫌な言葉遣いをしたくないから、かわいい女の子みたいな振りをするけれど、結構限界だったりすることも気付いているのだろうか。汗をかけば化粧だって崩れるし、喉は乾くし、となみなみ注がれたスポーツドリンクを一気に飲み干してから、もしかしてこれもはしたなかったかも、と考えてしまう。
 わたしの行動の主軸にあるものが全部彼であることをきっと彼は知らなくて、時々すべてがどうでもよくなる。一コンマごとに愛おしいはずの彼の美しい横顔が、少しの不安で陰る瞬間を見たくて生きているのかもしれない、とか考えたり。そんな思考を読むように孝支はわたしの首元に顔をうずめて、余裕を含ませたような声で囁いた。

「なんか、ほんっとに顔変わんないよな」
「そう」
「暑いのか、寒いのかわからん」
「すごく、あつい」
「それは分かったって」

 空になったグラスをそのままシンクに置いて、後ろから抱きしめられたまま、彼の半月型の爪の白いところを何度も何度も撫でる。真っ白の曲線は人よりすこしだけ長くて、そもそも手が大きいから、指が更に長く見える。
 変わらない表情、と言ったそれが、むしろ寒暖以外のすべてを指していることくらい子どもじゃないので分かっていた。でも、暑い、暑い、と呟くわたしが、熱の塊みたいになっている孝支に抱きすくめられても離れようとしない意味だとか、考えたことがあるんだろうか。わたしは彼を愛していないだとか、彼よりわたしの愛の方が薄いだとか、思われているんだろうか、思われてるな。ばかみたいに声をあげて愛していると騒いだら、孝支が満足するのかもしれない、けれど、できない。別に滑稽だとか、愛情の言葉がすり減るだとか思っているわけじゃなく、ただ伝わってないんだなぁ、と考えたら、思考は終わり。
 孝支の肌に馴染んだ金色のアクセサリーに、指の節に、手のひらに、黒子が浮かぶ頬に、香水の匂いの残る首筋に触れる瞬間、泣きたくなる。泣くことは、愛してることを声高に叫びだすこととわたしにとってはきっと同じで、でもどちらも行ったことがない。泣きも、笑いも、愛も語らない彼女なんて、彼が執着する必要があるのだろうか。

「今日、泊まれんの」
「いいよ、休みだし」
「どっか行きたいとこある?車出してもいいし」
「……ない」
「気ぃ遣うような仲でもないだろ、」
「気なんて使ったことないよ」
「それはそれで問題あるわ~」

 冗談ぽく笑ってみせているけれど、どこか拗ねた声は耳元で掠れて消えて、腰が砕けそうになる。ガムシロップ、ケーキ、チョコレートファウンテン、マカロン、キャラメルにはちみつ、どんなものにも勝てない声。
 片方の手が当たり前のようにわたしの腰を抱いているから、わたしは立っていられるのかもしれない。こんなことを考えていることすら知らないまま、彼はわたしとだだっぴろいキッチンに立ち尽くしているのだ。
 明日の予定を、今晩の予定を考えている孝支に抱きしめられたまま、クーラーなんて本当はいらないことも言えない。一番可愛いわたしでいたいのは事実だけれどそんな矮小な理由よりも、感じられる体温の方が誠実だから。一本ずつ、彼の爪の曲線をなぞり終えてから、彼が意外にも成すがまま、かつそれに触れていないことに気付いた。
 かわいい、わたしの、いや、いつかきっとわたしのじゃなくなる、でも今はわたしの孝支。
 すこしの沈黙は、きっと今日の夜、どこでご飯を食べるか考えているのだ、とすぐに分かる。辛い物が食べたい、ばかみたいに汗をかきたい、でもカレーより中華、いや、ストレートに唐辛子の辛さがいいな。

「何か食いたいもんとか」
「辛いの、唐辛子系」
「めっちゃ決まってるじゃん」
「だって孝支としか行けないし、あ、ちゃんと辛さの段階選べるやつね」
「そんなの分かってるって」

 このリクエストも正直何度目か分からない。同じお店でもいいし、違うお店でもいい、二人で食事をするだとか、彼の助手席にわたしが乗るだとか、彼がお店を予約する、だとか。そういうすべてが、わたしの心を満たしてくれる、本当に本当に一瞬だけなんだけれど。孝支は終わり、とか考えないのかな、いつか終わる二人だって、思わないのかな、健全だな、実際健全だし。

「食べたいもの、」
「なんかあった」
「孝支」

 孝支、声を出し手を伸ばした自分が泣いているのかと思ったら、びっくりするくらい微笑んでいた。泣き声と笑い声が似ているというけれど、確かにそうかもしれない。
 後ろから抱きすくめられた身体をぐるりと反転させて、彼の頬にやっと指先が触れた。すごく遠い距離に彼がいるような気がしたけれど、まったくそんなことはなくて、わたしの指先も手のひらも彼に触れきっている。両足で精いっぱいの背伸びをして、彼のくちびるに自分のくちびるを押し付けた。自分からしたことなんてないせいか、ぶつかるだけのへたくそなキス。孝支のなんとも形容しがたいふわふわの唇と、奥にあるちょっと不器用な舌先に触れて、ちょっとだけ喉が鳴って、泣くかと思った。
 ゆっくりと、わたしのへたくそな唇を受け入れる彼に舌先をくすぐる真似事の振りをして何度も愛している、と口を動かした。一生、さよならするまで、わたしが孝支を愚かしく愛していることは、知らなくていい。早くわたしを棄ててくれないかな、そうしたら、この思い出だけで生きていけるから、なんて願うけれど、孝支は笑っている。

「珍しく積極的だな」
「でも、ご飯の方が食べたい」
「ハイハイ」

 ちゅ、と最後に唇と唇を軽く重ねた後、孝支はするりとわたしから離れて携帯の方へ向かう。
 さあ、わたしの愛おしい人はどんなお店を選んでくれるのだろう。「期待してるよ」、本当はどこでもいいのに言ってみれば「誰に言ってんだっつの」と自信ありげな声。
 愛してるよ、もおんなじように言えたらいいのに。
 きちんとリビングに戻ったら、一番にクーラーをつける音が聞こえて、わたしは冷蔵庫を開ける。もう一杯なにか飲もうかと思ったけれど、ぼやぼやと浮かれた唇が、他のものを拒絶していて、冷蔵庫のドアはまた閉まる。

 ソファにもたれて携帯に触れる孝支の俯き顏にそっと、一歩ずつ近づく。
 絶対、一生忘れてやらないから。
 さっきの唇を重ね終えた時の、ばかみたいに嬉しそうな顔と携帯に向かう足取りも、今の瞳も全部。
 ここは現実だ、でも現実は進んでいく、それを怖がっていることも、孝支を愛していることも、死ぬまで一緒なんて言葉が嘘っぱちなことも、孝支はまだ、きっと知らない。