永遠なんて誰が望んだ
職場の最寄り駅にある、公共料金の支払いでよく利用していたコンビニと、隣の洋服屋と、仕事が早く終わったときにひとりで行っていたカラオケ屋がこの一週間で立て続けに閉店した。
だからって別に、支払いは家の近くのコンビニですればいいし、洋服は今までも殆どを他のお店で買っていたし、カラオケだって反対側の出口にあるし。なにも変わらないような感じもするけれど、職場まで歩く道々で立ち寄っていた全てに真っ白いビニールがかけられたり、見慣れた三十分幾らの料金の看板の代わりに閉店の粛々とした張り紙があって、ついてないな、と毎日思う。立て続けに、というのがまた引っかかる。
不況なのか不運なのかただの偶然に引っかかりすぎなのか分からないまま、職場に向かうたび、なんだかがっかりする。働いていた人は別の店舗に移動になるだろうし、利用していた地元の人も少しは悲しくなったりするのかもしれない。わたしに関係あるようで、取り立てて実は関係がない。
仕事終わり、何も考えずにカラオケ屋に足を向け、撤去されている看板とその後ろにあった真っ白い壁を見詰めていたら、いつの間にか電話をかけていた。コール音を三回聞いていたらそれだけで居た堪れなくなって、電話を切ろうとした瞬間にぷつっと、電話の繋がる音がする。自分でかけた筈なのに機械の向こう側から聞こえてくる孝支の声に驚いてしまう。
「こんばんは」
『……こんばんは』
「仕事は?」
『もう終わったよ。今、家』
「そっか、お疲れさま」
『どうした?』
こんばんは、に付属した、甘くって柔らかい孝支の微笑んだ音が耳の奥にじんわりと広がっていく。真冬に飲む湯気の立った砂糖だけの紅茶くらい心地の良い、素朴で、だからこそ何よりあたたかい声が心まで沁み通る。
声が聞きたかった理由は大した事ではなくて、言葉にしたら更に大した事ではないのだと分かっていた。それでも、わたしはなぜだか、職場の通り道の店が三つ立て続けに閉店したのだと彼に話していた。うん、うん、と彼が相槌を打つ間に、遠くで何かの音が聞こえる、グラスのぶつかるみたいな音と彼が液体を飲む音。話半分でも聞いてくれるだけ優しいのだと、話してしまいたくなる寛容さが彼にあるのだと知っている。相槌は最初のこんばんはの声に匹敵するあたたかさで、わたしのとりとめのない話の最初から最後までの丁度良いタイミングで挟まれた。
「それだけなんだけどね」
『それだけなぁ』
「うん」
『でも
愛子はなんかあれだったんだろ、うまく言えないけどさあ』
「……うん」
『俺に電話したくなるほど』
もう一度「うん」と答えると、「じゃあそういうことだべ?」と孝支は言って、ぷしゅっと間の抜けた音を出した。わたしが何かを言う前に快活な笑い声を喉の中で広げながら「ビールです」と孝支は言った。言葉が通じた、と思って、わたしは彼のビールを飲む音を機械越しに聞きながら、どうして言葉が伝わったのか考えてしまう。
同じ日本語で、たとえば悲しいだとか嬉しいだとか、欲しいだとか、難しいだとか、そういうもっと分かりやすい言葉ですら伝わらない人がごまんといる世界で、今のばかみたいな虚しさやからっぽな気持ちを孝支は多分、分かったのだ。たくさんの分かりやすい言葉を尽くして伝えようとしたって通じないときは通じない筈なのに。
もう分かっているアルミ缶がテーブルに置かれた音がして、それから孝支がちいさな息を吐く。缶を開けた時みたいなちいさな抜けた音で。
『来る?』
「今から?」
『今から』
「……行く」
『待ってるな、あ、』
「なに」
『後で払うから牛乳買ってきてくれない?』
「それが目的でしょ」
『ばれたか。あ、メーカーはなんでもいいから、大きい方のパックな』
「じゃあ待ってるなぁ」、わたしが頷いた声を聞いた後で孝支はきちんと素早く、寂しくなりすぎないように電話を切ってくれる。ピーッピーッと繰り返される音を聞いてしまわないようにわたしも電話を切って、携帯をコートのポケットにしまった。
牛乳は彼の家近くのコンビニで買えばいいだろうか。わたしは重たい鞄を持ち直して、ヒールの音をいつもより強く、はっきりと立てながら歩き出す。電車に乗ったら、まだビールのストックある?と彼に訊いてみよう、一本くらい貰っても良いだろう。
まだ少し遠い駅の改札を、電車の中を、彼の家の近くの駅を、コンビニを、絵のように一気に思い出して、わたしは強くなる。心を覆っていた変な靄は今だけきっちり晴れていて、また靄がかかることもあるけれど、それでもまた簡単に晴らすことができるのだ。
テレビでも見ながらわたしのことを待っているであろう孝支を、綺麗な灰色の髪のことを考えて、また、足が速くなる。