アムール・アドニス



 初夏というにはまだ早すぎる5月の中旬。宮城の気候にしては例年に比べるとびっくりするくらいの茹だるような暑さに、隣のはうーとかあーとか文句を垂れている。低血圧のせいかいつもは心配になるくらい朝は無口なくせに、異常なまでの饒舌ぶりが気持ち悪い。どれだけ暑いのが苦手なのだろう。

「今何月だったっけか、」
「5月だけど」
「……暑すぎっしょ、あたまいたい……な、孝支、サボっぺ」

 確かにこの前もこもこと嵩張った冬服から移行したばかりの長袖の制服では、背中にじっとりと滲む汗が鬱陶しい。といっても今日のは学ランなんて着ずに、いつも中に着ている真っ黒なTシャツの上にYシャツを羽織り、腕まくりしたセーターだけでいるのだけれど。制服のズボンは捲って七分丈になるように折り畳んである。

、このカッコじゃ、ただのヤンキーみたいだ)

 いつもは滅多にしないだらしない服装、いつの間にかかわいいよりかっこいいが似合うようになった容姿。そのだるい制服の着崩しが線の細いには不思議と似合っていた。
 このまま学校に行くんじゃ、絶対生徒指導の先生に校門で怒られて俺が謝るんだろうなぁと思うと心なしか気分は重い。俺は今のと違って優等生ぶった服装だけれども、何かにかこつけて嫌味でも言われたらたまったもんじゃない。

 家を出る前に、服装を変えろと何回言ったって、は言うことを聞いてはくれなかった。利かん坊の顔をしてふてぶてしくふてくされてみせて。
 高校生になって、は少しだけ明るくなった。友だちは多いわけではないみたいだけれどそれなりにいるらしい。1日に何回もピカピカ光るの携帯を見ていると、それは聞かなくたってわかる。どうやら外界との交流を極力遮断して学校の図書室に引きこもっていたらしい小学校や中学生の時に比べたら遥かな進歩だ。

 だけど相も変わらず甘えん坊なところはちっとも変わっていない。ぺったりと隣に寄り添うように、ことあるごとに寄りかかってくる。16歳の上目使いは相変わらず殺人級の可愛さだ。そんなを、大地はよく「おおきい赤ちゃんだ」と笑いながら形容する。俺たちに寄りかかりながらすやすや眠るの赤い頬っぺたは本当に赤ちゃんみたいなのだからたまらない。
 そのおっきい赤ちゃんはただいま俺をプチ非行の道に誘うのに必死だ。アイスを買って、涼しい風の通る場所で午前中を過ごして、そのまま昼寝しちゃおう、学校なんてサボろう、と。
 英語体育数学生物古典数学LHR。進学クラスにしてもいまいち微妙な今日の教科と、なにかもを投げたしたくなるような暑さとのこの格好を天秤にかける。

「な、いいべ?」
「……んー、俺、結構学校では優等生なんだけど」
「ふふっ、ふぅん」
「もう、……いいよ。でも今日みたいなことはもう当分はねえよ?約束だからな」
「やったー!決まり。な?」

 本当に嬉しいときの手放しの笑顔と鼻唄、堪えきれてない笑いを言葉にするの姿は子どもの頃から変わっちゃいない。能天気で何にも考えていない高い声、空へと高く掲げられた両腕。
 俺の手をぎゅっと握ってが走り出す。繋がれた手は汗ばんでいるけどはまったく気にしないといったように、生ぬるく通り過ぎていく風の温度に笑っている。死ぬほど体力のないでは、このペースだときっとすぐにバテてしまうだろうに。向かうのはきっと昔はよく通ったここらへん一番大きい、利用者へと屋上が開放されているスーパーだ。



「ふあー、生き返った!」
「……いっつもここは涼しいなや」

 スーパーの屋上は生ぬるい空気を吹き飛ばすような風通しの良さで、直は元気良く寂れた遊具にもたれ掛かった。街を見下ろす屋上は入り組んだ道と小さな建物をパノラマみたいに見せる。屋根を見るだけではどの建物が誰の家、なんてことはよくわからない。だけどこの1つ1つに誰かが、ある家族が住んで生活をしている。
 そう考えると家族なんてちっぽけだ。でも確かにこうやって存在しているから、変えることの出来ない永遠に近い枠組みではあるのだけれど。
 永遠は最小限でちっぽけだ。それはいつだって変わらないこの世のルールでもある。

「孝支、こっち来て」
「暑いんじゃないの」
「孝支は特別。くっついたって、特別」
「……都合いいなぁ、ていうか重っ」

 制服の端を掴んで、が俺を引き寄せる。何だって出来るようになったのであろう、一人前の強いその手の力。鳩尾辺りが少しひやりとする。
 考えごとをしているうちに、俺の手にあった人工的な青みの強い蛍光ブルーのアイスバーの端が、の口に消える。日に焼けない赤いの唇と嘘くさいサイダーの毒々しい色彩は、まるで白昼夢を見ているかのようだ。

「あ、」
「ぷは、孝支、鈍い」
「うるさいよ。うまいべ?それ」
「ずーっと好きだよなあ、これ。……な、孝支、この街ってキレイだっちゃね」

 何の変哲もない街を見下ろして、が言う。そして俺の方を一瞥してから、寂しそうな顔で笑った。
 たぶんきっと俺はこの街を去る、そんな日がやって来るのだろう。でもずっと一緒の場所が俺らにとっての街であることに変わりはないはずだ。
 だって家族は永遠なのだから。