「不満があるならはっきり言えば」
「……」
「……黙んなよ」
「だって、」
「言ってもしょうがないって?」
「……」
「俺に期待してないってことだろ、それ」
すぅ、と部屋の空気が冷たくなるのが分かった。それからのことはあんまり覚えていないけれど、リビングのドアが閉まる音と、玄関の靴箱上にあるキートレイから家の鍵を取ったのであろう金属音が聞こえた気がした。引き止める言葉のひとつすらまともに出てこない俺の頭は、とことん恋愛には向いていないと思う。あんなことが言いたかったのではない。思ってもないことを言ったつもりはないけれど、言い方は他にもあったと思う。
苛立ちと遣る瀬なさを隠しきれずソファに荒々しく腰掛けると、スプリングが不快な音を立てて、少し前に買い換えようと言われていたことを思い出した。
*
「俺に期待してないってことだろ、それ」
「それモノマネ?全然似てないけど」
「今そこじゃない」
「ああ、ごめんごめん」
「そりゃあさあ、掃除だって嫌いだよ?元々細かい性格じゃないし」
「ガサツだもんね」
「……それでもちゃんとやるし、遅くてもご飯つくるし、好きなものも合わせるし、」
「うん」
「でもそれは不満とは違うじゃんか」
「大好きだもんね、聖臣のこと」
「……うん」
「あ、のろけ」
「……誘導尋問」
まあ落ち着いて、と出されたコーヒーの表面が揺れた。こんな時間に、それもこんな理由で頼れる人は一人しかいない。聖臣もそれを知っているから、追いかけてこない。わたしを、というよりもこの人のことを、信用しているからだ。
「あー……、元也くん」
「なに」
「わたし謝りたくない」
「じゃあ謝んなきゃいいんじゃねえの?」
「ひとごとだと思って……」
「ひとごとだもん」
「……はいはい」
「あ、それ飲んだら帰ってね」
「え、つめたっ」
「お腹空かして待ってるでしょ」
「ペットみたいに言わないで」
「っていうか帰ってもらわないと、俺の携帯が鳴り止まないんですけど」
元也くんがわたしの目の前で携帯の画面を見せつけるように揺らす。着信7件、全て同じ人物から。
決して喧嘩は多い方ではないし、短くない付き合いの中でお互いの性格は分かり合えていると思っていた。けれど、相手の為だと思っていたことが空回りすることだってある。気持ちが昂れば本当に言いたいこととは別の言葉が出てきてしまうことくらい重々分かっている。彼が、気持ちを整理するのに少し時間がかかる人だということも。
「結構不器用だからね、あいつも」
「だから許してあげてって?」
「……言うなよって言われたけどさあ、」
「なに」
「お前が来たらあったかいものでも出してやってって」
「どおりで元也くんにしては気が利くと思った」
「とりあえず痴話喧嘩に俺を巻き込むのはやめろって伝えてもらえる?」
「……お騒がせしました」
*
ドアノブに手をかけてごくりと唾を飲み込む。タクシーの中で何度も練習した「ただいま」を最後に二回、ドアの前で練習した。あとは勢い、どうにでもなれ、そんな気持ちでドアを引くと、懐かしい香りがわたしを包み込む。ふわり、というより、もわり、という感じ。これは、紛れもなく。
「カレー?」
「……おかえり」
「……ただいま」
「早かったね」
「はあ、」
つい2時間ほど前の口調とは打って変わって、冷静で、淡々とした口調で彼は言う。ただいま、の練習成果はそれほど発揮できなかった。ドアを開けて真っ先に目に入ったのが、わたしのエプロンをつけて鍋をかき回している聖臣だったからだ。他人のエプロンを平気で着用できるような感性を持つ人間ではないから余計に驚いた。ついに頭がおかしくなったのか、と思って携帯を開くと「さっき言い忘れてたけどカレーの作り方聞かれた。意味わからん。」とのメッセージ。
「なにしてるの」
「もうできるから、座って」
「あ、はい」
「……やっぱりご飯だけよそって」
「う、うん」
ちょうど良すぎるタイミングでタイマーを鳴らした炊飯器を開けると、真っ白い湯気がわたしの顔を包み込んだ。わたしがご飯をよそって、聖臣がその上からルーをかける。なんのひねりもない、シンプルすぎるカレーライスが、木目調のテーブルの上にふたつ並んだ。食えば、いただきます、というやりとりがあったあとは、なんとなく気まずくなって、黙り込んでしまう。スプーンがお皿に当たる音だけが部屋に響いていた。
「……あまい」
「……お前いつも甘口じゃん」
「それは聖臣が甘口の方が好きだから」
「いつの話してんの、ていうか今まで我慢してた?」
「や、別に……おいしいって言ってもらえる方が嬉しいから」
「ふーん。おいしい?」
「……野菜かたいし大きすぎ、あと水っぽい」
「……慣れてないだけ、次は失敗しない」
「……うん、でも、おいしい」
聖臣は、ふっと息を吐くみたいに笑ってから、確かに嬉しいもんだな、なんてのたまった。そこそこひどい事を言われた気がしたけれど、その僅かに緩んだ目許を見ればなんでも許せてしまうなんて言ったら、甘やかすなと元也くんあたりに怒られそうだ。
「ソファ、」
「え?」
「買いに行こうか、一緒に」
「一緒に?」
「うん、一緒に」
「……はーい」
「あと、」
「んー」
「さっきはごめん」
「……うん」
「あと」
「まだなんかあるの」
「あんま他の奴のとことか行ったりしないで」
「……!!」