店員さんが閉めた引き戸のがらがらという音が、わたしの心拍数を上げる。
本当に誰からも見えないきちんとした部屋のようになっているお店に、男の人と二人きりだなんて、慣れていない。彼の予約してくれたお店はわたしにとっては不慣れな、高級感のある場所で、やはり遊び慣れている人なのかと思えば、「ここ、友達がやっててん」とぼそりと、まるで言い訳がましく、彼は言ったのだった。
メニューを開いて、そもそもの目的である水炊き以外の料理を二人で指をさしながら話をする。例えば、嫌いな食べ物があるのかとか、お酒はどんなものを飲むのか、とか、そういったことを、きちんと。
複数で食事をしたことや、二人で話したことはあったけれど、全くの二人きりというのは初めてだった。先日他の友人もいるなかで、宮さんと何かの話でよく行くお店の話になり、「鶏肉が一番好きなので結構偏ってますね」なんてことをわたしが言って、そうしたら彼がいいお店を知っている、と言って、今度行こう、と言ってくれたのまでは記憶にある。というか、全部覚えているけれど、まさか本気で彼の方から連絡が来ると思わなかったのだ。わざわざ二人ですか、と聞く勇気もないけれど、明らかに彼とわたしの都合だけで決まった約束に多少の戸惑いを隠せないまま、わたしは未だ目の前の椅子に座る彼のメニューを見る俯きがちな顔のおかげでよく見える美しいまぶたの形を瞳でなぞっていた。
「どんなん飲むん」
「そうですね、どうしよう。宮さんは」
「俺?俺はこれ」
言葉とともにすっ、と指したのはひとつの焼酎で、ああそれもいいな、と思ったけれど、わたしは少しだけ考えてからいつもは飲まない果実酒の水割りを頼んだ。宮さんがボタンを押すと、引き戸が音を立てて開いて、やってきた本当に顔見知りらしい店員さんに注文を済ませた。「ごゆっくり」と店員さんが何気なく、というか、当たり前の声でそう言ってまたがらがらがら、と音を立ててドアを閉めて去っていく。宮さんはそれだけで眉を寄せ、「ふぅ」と小さく息を吐きだしてすぐ、それを回収するように「七宝ちゃんに言うたんちゃうで」と付け足した。
友人の働くお店、というものはわたしも人を連れていくことがあるけれど、授業参観のような違和感というか、友人や自分のテリトリーに別の人間を入れるというある種の気恥ずかしさみたいなものが一番初めに生まれるのだ。多分宮さんもそういう意味で、まだこの空間に慣れていないのだろうか、それならばなぜわたしをここに誘ってくれたのだろうか、なんて、浮かれてしまいそうなことばかり考えてしまう。
まだ飲み物が届いていない手持ち無沙汰をごまかすように汗をかいた水のグラスに指先を触れて、やはり喉を潤すことも無意味な気になって手を離す。宮さんが何か口を開きかけた時に、恐ろしいほど鮮明な、雷に酷似した音で引き戸はまた開けられ、ふたつのグラスがテーブルに滑るように置かれ、水炊きの準備がなされていく。手際よく野菜や鶏肉を入れていく箸捌きを見つめていると、自分がきちんと緊張と同時に食欲も湧いていることに気付いて安心した。大したことではない、全部、大したことではない、と魔法の言葉のように繰り返し、彼とグラスを合わせる。お疲れ、お疲れ様です、と言葉をかけあったあと立ち上る甘い野菜と鶏肉の匂いに思わず、「美味しそう」と声が漏れた。「このまま一分ほどお待ちください」、と言って店員さんは去っていき、ふ、と宮さんに視線を戻すと、まるで母親のように彼は笑っていた。
「一分、我慢できるん?」
「できます、我慢した方が美味しいなら我慢します」
「一理あるなぁ、それ」
「でも本当に凄く美味しそうですね」
「うまいからな、めっちゃ」
にっこりと笑った宮さんを見ていると、時間の経過が分からなくなってくる。一分とは、反射的に腕時計を見ても一分イコール六十秒なんてあっという間な気がして、ああ、そうだ、よそったりしないと。あわあわとしながらも、確実に一分経過したであろうという瞬間に少しだけ椅子を引いて、鍋の具材を二人分よそう。こんな緊張久しぶりだと思った後に、これは最初から緊張なんて生ぬるいものではないことも分かっていた。宮淳太さんに、ドキドキしている、とはっきり分かっているはずなのに、心ではまだ認めたくない。塩やゆず胡椒、小口切りにされたネギといった薬味に手をつけることなくまずはそのままの野菜に箸をつけた。ふわふわとただよう湯気を吸いこんで目を細めてから両手を合わせて「いただきます」と声に出すと、彼も同じタイミングで同じ言葉を放って、目が合う。
「冷めるで」
「はい」
綺麗に澄んだ茶色の瞳はカラーコンタクトを入れる必要がないほど大きい。あんまりにも真正面に座っている彼と顔を合わせるだけで、胸が苦しくなるな、と思いながら口に運んだ白菜が美味しくてまた「美味しい」という言葉が零れ落ちてしまう。宮さんのことを意識しているはずなのに、彼を意識しつつも箸が止まらないまま、最初によそった具材はいつもより早いペースでなくなっていった。友達のお店とはいえやはり舌の肥えた人だなとも思いながら、ふう、とぬるい息を吐きだして一心地着くと、焼酎のグラスをゆらりと揺らしていた宮さんが、わたしを途中からずっと見ていたのだ、と気付いた。「いただきます」から最初は彼のことを少しばかり意識して見ていたけれど、彼もゆっくりと丁寧に食材を口に運んでいたはずなのに、どうしてか今はじっと、こちらを見ていて、どうしてか、驕っていいのか、こんなに早く驕ってしまっていいわけはないのに。
「終電、て何時なん」
「えっと、十二時くらいに電車に乗れれば全然」
「今日は俺も飲んでるし、送られへんから。まぁタクシーでもええけど」
「いや、電車で帰ります」
「タクシー嫌いなんやろ?」
なんで知っているのか、電車で帰るか朝まで飲むかの二択しかない、というかタクシー代を拒絶して生きていることをまるで知られているみたいだった。
宮さんは、そもそも持っていたことすら忘れてしまうほど存在感のない携帯を鞄から取りだして「じゃあとりあえず11時半、……あんま時間ないな」と言いながらもアラームをセットしてみせる。なんだか酷く健全なデートのようだ、考えてみて、「ようだ」とはなんなのだろう。もしもわたしが女友達から、ここまでの経緯を聞いたらそれはデートだ、と結論付けるだろう、むしろそれ以外はないし、相手は絶対気があるなんて無責任にも言ってしまうかもしれない。
彼がちびりちびりと焼酎を干している中で、わたしのグラスが先に空になり、彼がまたメニューを開く。別の果実酒の水割りの名前を上げ、彼がボタンを押すと、同じタイミングで彼はグラスを一気に干した。ぽかん、とした顔のわたしに気付いているのか分からないまま、二人分のアルコールの注文を済ませた宮さんが、口直しとばかりに箸に手を伸ばす。「やっぱ美味しいな」、と呟いた声に、「はい」と答えたわたしの声はもう溶けきっている。水で割った果実酒は、コンビニにある果物のお水のようにしか感じられなくて、酔っているはずがないのに、酔っているみたいで。
「あの、今日はありがとうございます」
「ええよ。めっちゃ気に入ってくれてるみたいやし、誘ったかいあったわ」
「また来ます、友達とか連れて」
「俺とはもう行かへんの」
「え、いや、宮さんがご迷惑でなければまたぜひ」
彼が満足そうに微笑んで、そういえば沈黙が苦痛な、緊張感を孕んだじりじりとした沈黙でなくなっていることに気付く。
やっと少しばかり静かに引き戸が開いて、グラスがふたつまたテーブルにやってきたとき、アラームの音が鳴った。店員さんがぽかんとしているその顔に向けて、宮さんはグラスの中身をあおった後、「チェックで」とやけにはっきり言った。がらがら、またドアが閉まって、確かに終電で帰るというのは無理があって、その無理をわたしはいま、通したくない。携帯をさっさとしまった宮さんにおずおずと声をかける。
「宮さんは、帰り、って」
「俺はタクシー」
「あの、わたしも、た、タクシーに、します、自分で払うんで、あの」
「ん?」
「もう少し、あの、飲みませんか」
宮さんが、一度目を大きく開いたまま、何かを言おうとして、代わりに彼の指先がボタンを押し店員さんに「悪いんやけどもうちょい飲むからさっきのチェック無しで」と告げる。わたしに言うではないままに出た彼の答えにどこか釈然としない思いが沸き上がるけれど、寸前の会話など何も知らないであろう店員さんはあまり気にしていないらしく、伝票を挟んだバインダーを持ったまま、戻っていった。
「まさか七宝ちゃんから言われると思わんかったな」
「え?」
「俺も、折角やっと二人で飲めたのにこんな早く帰したくなかったし」
「……あの」
「まだ帰りたくない、ってことやろ?さっきの」
「……そうですけど、わざわざ言い直さないでください」
「なんで、ホンマのことやん」
「宮さんって意地悪なんですね」
「そう思う?」
彼の傾けるグラスが揺れていて、茶色の大きな瞳がビー玉のようにわたしを映す。最後に投げかけられた疑問符に返せる手持ちのカードを持っていないのはわたしが子供だからか、経験値がないからか。代わりに薄くあまいアルコールを一口含んで、「まだ、知らないので」とだけ返した。これがわたしの精いっぱいだ、と考えた後、精いっぱいであることももしかしたら面白がられているのかもしれない。
この人がいつかわたしの言葉に驚いたり、ドキドキしたり、困ったりするところが見たい、と単純に思った。もう少し近付いたら、もう少し話したら、彼のそんな一面を見られるだろうか、とグラスをそっとテーブルに置いた後で景色が蘇った。
授業参観のようなこのお店の最初の空気や、じりじりとした沈黙。宮さんももしかして、今ならちょっとだけ驕ってもいいのかもしれない、勝手にふにゃりと緩んだ口元を見逃さない彼が「なんで笑ってるん」と問いかけてくるので、わたしは場に、宮さんに、酔ったまま言葉を放つ。
「終電、逃して良かったです、わたし」
「え」
余裕しゃくしゃく、先程の微笑みが嘘のように茶色の瞳だけ転がって落ちてきそうなほど目を丸くした彼を見て、わたしはまた笑う。
ああ、心まであたたかくて何かにひたされたように心地が良い。
宮さんが分かりやすく悔しそうにわたしを見つめるから、次は彼と同じものを飲んでみようか、いやでもまだ嫌われたくないんだよな、なんて考えてみたりする。
本音を言うのも、終電を逃すのも、宮さんの前だったら悪くないと、心底思いながら。