ふらふらと立ち上がって、冷蔵庫を、そしてキッチンの棚を開けた治が「うわっ」と急に声を出して仰け反った。
わたしは雑誌を膝に広げながら、キッチンに向かうために立ち上がった瞬間から目で追っていた彼が仰け反ったのを見て、小さく同じように仰け反ってしまう。
虫か何かでも出たのかと思いきや、そのまま大きな溜息を十二分にある肺活量で長々と吐き出した後に「ラーメン無いやん」と呟くのだった。人の家の冷蔵庫と棚にそんな期待を抱かれても困るし、昔あったラーメンも友人の旅行の土産や治自身が買ってきたものだ、ということを覚えているのだろうか。
「無いよ、この前食べてたじゃん」
「食いたかったなぁ」
「急にどうしたの」
「いや、ずっと腹減っててんけど、言うの悪いやんか」
「そういうのは早く言いなよ」
「うう……、でもなぁ」
治がそう言って大きな身体を半分に折り曲げるみたいにへにゃりと座り込んだままこちらを見る。
わたしは読みかけの雑誌をそのまま閉じて、治の上着と自分の上着を取りに奥の部屋へ向かった。気の抜けたスリッパの足音を立てて、治の所へ近づきながら、冷蔵庫にシチューの材料があったことをふと思い出したからだ。確かに今から作るのも面倒だし、言い訳のように考えると上着と一緒に引っ掴んだちいさな鞄とそこに押し込んだ財布が揺れる。
治に甘いんだよなぁ、わたしよりずっと大きくて筋肉質で、いわゆるスポーツマンらしい身体つきだから、唐突にラーメンすら食べられるのだろう。
ダイエットという言葉とは縁遠い人生を送って来たであろうその背中に上着をかけると、治が立ち上がりながらこちらを見た。上着は彼の身体に合う分わたしの上着よりずっと重く、けれどひらりとそれを彼が羽織るとなんでもないことのように思えた。
「行くよー」
「え、」
「一番近いとこね」
「やったー俺あそこ好きやねん」
「わたしも久々にあのお店の餃子食べたかったから」
「優しいなぁ」
上着のポケットを何度かぱたぱたとさせてから、奥の部屋に携帯やら何やらを治が取って戻ってくる。それから、鞄を持ったわたしを見て、彼は当たり前のように「何入ってんの」と問いかけてきた。財布、と答えると、そんだけ?と彼の声はいやに澄んでいて、指先にあるじゃらじゃらとついた鍵の塊を弄ぶ指先は武骨そのものだ。わたしが上着を彼に渡した時よりも簡単に、彼はわたしの鞄を一番近いテーブルに置いて、そのまま玄関へ向かった。
「いらんやろ、俺出すし」
「いいのに」
「俺の台詞です」
にこりと笑った治がさっさと靴を履きだすのを、何も言えないまま追うように部屋を出る。部屋の電気と暖房がつけっぱなしではあるけれど、すぐに食べて戻るつもりだしいいだろう。
びゅう、と吹き込む風に寒い、という声を出しながら、両手を上着のポケットに押し込むと、その間に治が鍵を閉めてくれた。そもそもわたしの家なのに治が鍵を閉めるのも本来ならなんだか座りどころの悪いような話である。彼からするとそれは別段気になる内容でもないらしく、「しゅっぱつ」と間延びした声と裏腹にさっさと治は歩き出す。
マフラーか何かでも持って来れば良かった、と真下に身体が運ばれていく感覚を味わいながらエレベーターで考え、エントランスから見える切り出したような闇にまた、上着の前を手繰るように触れた。治は寒いなんて顔にも言葉にも出さず、ただ真っ直ぐに自動ドアをくぐり一直線に進んでいく。
日が沈むのが随分早くなった。
目的地である、歩いて五分程の所にある個人経営らしきラーメン屋は、ラーメン屋なのに異常に餃子が美味しく、入り口の手書きの看板にも「一番人気はなぜか餃子です」と書いてある。カウンター席が一列と二人掛け席が五つ、きつきつに置いてある、あたたかみのある店だ。
持ち帰り出来る餃子を買って帰ろうといつも思うのだけれど、帰りに寄るには信号が家の反対で、少しばかり億劫だったりする。治に誘われないと結局なかなか来ることがなく、初めて行ったのも、一番最近に行ったのも治とだった。別に頻繁に行っているわけでもないけれど、時たま行く、こうやって。暗くなった道で並んで歩いていると、何度も何度も経験した景色や時間が戻ってくるような、これからそれを追い越すような、不思議な感覚を覚える。
二つの信号はそこそこ早く青に変わり、ラーメン屋のドアを治がゆっくりと開けてわたしを先に入れてくれた。真っ暗な道の中から急に明るい店の中に、店の中の如何にもなラーメン屋の景色に、ちょっとだけ驚いてから、カウンターの席に並んだ。いつもはもっと遅い時間に行く所為かやけに今日は閑散としている。二人揃ってラーメンと餃子のセットを注文して、出てきた水の入ったコップに口をつけると、治が「外寒かったな」と笑った。
「確かにね」
「帰りも寒いんやなぁ」
「食べた後だからあったかいんじゃない」
「あー前向き」
「前向きかな」
手首につけていたヘアゴムで髪の毛をくくりながら、カウンターの奥で焼ける餃子の音を聞いていた。そういえば、たいして空腹でもない、なんて言いながらラーメンに餃子まで頼んでしまった。
「食べきれるかな」
「余ったら俺食ったるわ」
「……普通に頼んじゃったよ」
「なんで。七宝のそういうとこ俺、ええと思うけどな」
「向こう見ずなところ?」
「んー、合うてんのかな、褒め言葉かもよう分からへんし」
会話をしながらのせいか三回目でやっと納得のいくポニーテールが出来て、髪の先がくるんと首筋に触れた。店の中は、きっと眼鏡をかけている人が入ったら眼鏡が曇ってしまうほどに熱がこもっている。
向こう見ず、以外の言い方を頭の中で考えていると、カウンターから二つのラーメンが置かれる音がした。治の方が素早く立ち上がって、最初にわたしに、その後の器を自分の前に置いた。ふわふわと漂う湯気としょっぱい匂い、ニンニクの混じった香ばしい香りに、空腹感が襲ってくる。割り箸を治に渡すと、頂きます、という律儀な声は嬉しそうに隣で響いて、ぱきりという割り箸の音も同じく嬉しそうに聞こえた。箸を割って、レンゲを掴んで、まだ止むことのない湯気を眺めていると、その間にも治が美味しそうにラーメンを食べる音がする。ちらりと彼の横顔を盗み見て、彼の顔を見ると、些細なことで彼のこんな顔が見られるなんて安いものだという気になった。少しばかり箸で取った麺を口で冷ましてから啜って、レンゲに掬ったスープを口に運んだ。
「美味しいー」
「うまいな」
「やっぱり食べたい時に食べるのが最高ですよ」
「七宝も食べたかったん」
「結構。でもあんまり食べると太るからさ」
「気にせんでええのに、って言っても女子は気にするもんなぁ」
「そうなんですよ」と答えた後、また黙々と二人でラーメンを食べ進めた。途中で二人分の餃子も運ばれてきた頃、治のラーメンはもう半分ほど減っていることに気づく。まだ四分の一、いや、三分の一は食べただろうかと言った所の自分の器を見ながらも、餃子に箸が伸びた。そもそも今日は餃子目当てだったんだよな、とちいさな器に注いだタレにつけた餃子を半分に割ると湯気と一緒に沢山の肉汁が溢れた。タレに浮かぶ丸い形の油がくっついたりはなれたりするのを見ながら、少し分厚い皮の餃子の半分を口に運ぶ。あっつ、と治が言う声が聞こえて一口で食べた彼が口を押えているのを見て、わたしは笑ってしまった。口の中で広がる生姜とにんにくと野菜と、お肉の味と、少し多めのラー油の入ったタレの味。
目の前にある器はコピーしたように治とわたし、中身もすべて一緒で、並んで二人で、同じものを食べている。身体も、感情も、今考えていることも何もかもが違うけれど、食べているもの、口の中に広がっている味みたいなものは一緒だ。
そう考えると、同じものを食べるということがとても限られた大事なことのように思えてくる。実際、事実なのだろうけれど、当たり前のこと過ぎて、大事なことであることは忘れがちなのだ。
ラーメン、餃子、間にちいさな氷がたくさん浮かんだ水を飲んで、黙々と目の前のものを消化していく。
結局、わたしはラーメンも餃子も、治を待たせることになったけれどきちんとすべて食べ終えた。わたしを待ってから手を合わせてごちそうさまを言う治に倣って、手を合わせてごちそうさま、と言った。口の中のあたたかい感情と空気みたいなものが言葉と一緒に眩しいほど明るい店の中で消えていく。視線を合わせると、帰る?と彼が目で問いかけているのが直ぐに分かって、頷く。
治が「お会計お願いします」ときっちりした、余り聞かない声で言うのをわたしは小さくなって聞いていた。ご馳走様です、どうもどうも、何その返し、そんな風にどうでもいい会話をしながら、お会計を済ませる彼の後頭部を眺めた。ポニーテールをしているはずなのに、首筋までじんわりと汗をかいてしまっている。二人分の飴を渡されている治を眺めて先に店を出ると、来た時と変わらない夜がぽっかりとあった。またすぐに光の中からやってきた治が、わたしの手を掴んで飴を乗せてくれる。
「美味しかったね」
「な」
「あっつい、そして寒い」
「髪縛ってるからちゃう」
「それだ」
手をヘアゴムにかけると治が「待って待って」とわたしの手を掴んだ。振り返ると治がちょっとだけ眉を下げて、口ごもって少ししてから「俺その髪型好きやねんな」と呟いた。
彼の声がやけに耳の奥で反響して離れない。
ちいさく、くっ、と鳴った喉を誤魔化すように、もう帰ろう、と聞こえるか聞こえないかの声で言って、わたしは治の手を掴んで歩き出した。治は何も答えないまま、手を握り返して、鍵の塊をじゃらじゃらと言わせながらついてきてくれる。
わたしのポニーテールはびゅんびゅんと横に揺れて、毛先が首筋に当たるし、首筋は冷えていくけれど、一向に構わない。びゅんびゅんとポニーテールを揺らしながら、あたたかくて武骨な治の手を握りしめたまま、わたしの、でも半分治のものみたいな見慣れた家に向かって、進んでいく。