あれ程欲していたのに



 治がわたしの隣で「せやったらコンビニ行くか?」と、このソファに座って何度目か分からない台詞を言った。
 冷蔵庫には一個百円のチーズケーキが二個と四個入りのシュークリーム一箱と葛餅が二種類入っている。返事の代わりに横に首を振りながら、まるで失恋したみたいだ、という比喩は一つも正しくなく実際失恋したらこんなものではない。けれど、ある、と思っていたものが、ない、というのは全く理不尽に裏切られた気になるということで。
 はじめはどうでも良さそうに、面倒くさそうに話を聞いていた筈の治の顔が半笑いであることもまた癪に障る。触っても来ないで、けれど携帯やテレビ等の他に視線を向けるわけでもなく隣で繰り返しているわたしの話を聞いている。

「だってあんなに入荷してて賞味期限五日後だよ」
「うん」
「九時間で売り切れる?あの量のプリン!」
「せやけど七宝も買いだめしようとしたんやろ」
「……美味しかったんだもん」
「おんなじこと考えたやつおったんちゃう」
「そんな暇な人いる」

 「ブーメランが凄い」と治が動物みたいにくつくつと喉を鳴らす。
 朝一番にスーパーで食料品の買い出しをした際、ふと目についた見たことのないプリンを気まぐれにひとつ買い、昼に起きてきた治のご飯を作って、自分はそのプリンを食べたのだ。プリン自体はあんまり甘くなく表面は焦げ付いていて、カラメルは液状でちょっと苦みがあり、まぁ、兎に角、美味しかった。美味しい美味しいと食べるわたしを、生姜焼きをメインに据えた食事をしながら見ている治が、寝ぼけ眼でこちらを眺めていた時はまだ良かったのだ。
 プリンが食べたくなる日、というものが人間誰しもある、とわたしは信じている。甘いものを積極的に食べない程度の人間なら誰しも。流石に、アレルギーは論外だし、嫌い、という人は難しいかもしれないけれど、あ、これ食べたい、の瞬間は大体あり、プリンもそこに存在するひとつだろう。カレーの話をしていたらカレーの口になった、みたいな何々の口という言葉に馴染みがあり、その何々に入る食べ物のリストを作ったら五十八番目くらいにはプリンも入ると思うのだ。そして昨晩治と見ていたスイーツデスマッチとかなんとかいうクイズで流れていたプリンを見てわたしはああ、プリン食べたい、と思って、寝たのだ。おにぎり屋を営むだけあって炭水化物が正義だと思っているらしい治にはそんなに響いておらず、普通に「今日は甘いの縛りかあ」と寧ろ残念そうにしていたけれど。
 無駄に早く起きたわたしがスーパーに行ったのは、先だってリクエストのあった生姜焼きのお肉を買うためだったのだけれど、棚に大量に置かれていたプリンは特売品、みたいなもので、見た目は高級そうなものの、ひとつ百円程度。まぁついでに、と肉と野菜と諸々のカゴに放り込んだプリンがひとつだったのは、外れかもしれないし、という危惧があったからだ。

「で、全部食うん?太るで」
「……そうなんだよ」
「体重気にしてるくせにやったな」
「なかったんだよ、プリン」
「プリンてさぁ、作られへんの、七宝料理するやん」

 結局わたしは、日が暮れてスーパーが閉まる少し前、涼しくなってきた時間帯にプリンを買いにまた一人でスーパーへ行ったのだ。治にほったらかしにされていて暇だったのもあるけれど、初めから決めていた。閉店四十五分前に入ったスーパーでやけくそで買ったプリン以外見事に余っていたスイーツ。美味しいとか知らないし、と冷蔵庫に詰めているわたしの後姿をちょこちょこと見てきた彼に何かを言う気も無かった。とんでもなく悲しい、だとか、無力だ、だとか、泣きたい、みたいなことも生きていると間々あるけれど、こういう中途半端なことはあからさまに落ち込む理由にもならない。感情をむき出しにするのもばかばかしく、なんならこんなことで落ち込んでしまっているという事実自体が恥ずかしくなってしまう。冷蔵庫に黙々と甘味を詰めるわたしを見つめ終えた治が、別に他意もなく「いっぱい買えて良かったなあ」と言ったのだ。そこからはもう、スーパーまでの二十分の気持ち、帰りのしょうもなさとうら寂しさとやけくそで買った甘味についてこんこんと話してしまった。初めはあからさまに「しょうもない」と「めんどくさい」の感情を顔に浮かべていた治が途中から笑い出して、わたしも半笑いになって。冷蔵庫の前で話していたら足が冷えてきて、二人でソファに座って、また話をした。しまいに治は「俺も行けばよかった」と悪意に満ちた顔で言い出して、携帯を触りだした。急に黙り込んだ治の顔はいたって真面目で、わたしまで黙ってしまう。沈黙を破った台詞は「レンジで簡単プリン」という随分と間の抜けた言葉。

「ほら、牛乳も砂糖も卵もあるやろ」
「……絶対美味しくないって」
「電子レンジやって。うまいんかな」
「なんで治が食べたくなってんの」
七宝見てたらなんかしたなった、ええやん、やってみよ」

 携帯の料理サイトで一番簡単そうなレシピのタイトルを何個も何個も治が読み上げる。「フライパンで作るって何」だとか「なんかゼリーのレシピ出てきた」「あー広告」だとか言いながら。冷蔵庫に入っている一個百円のチーズケーキが二個と四個入りのシュークリーム一箱と二種類の葛餅のことを考えて、すぐ忘れたことにする。シュークリーム以外は賞味期限が長かったな、ということだけ思い返して、携帯を覗き込む。にやにや顔の治が、一押しらしいレシピのページをわたしに見せてくる。砂糖の量が想像より少ない、あと、当たり前だけど茶碗蒸しと殆ど同じようなものだ。バニラエッセンスがあった方がいいけど無いし、それでも美味しいのかな、と思うわたしの頭はもうプリンに向かっている。治は携帯を掴んだまま、先行してキッチンで牛乳やらお砂糖やらを取り出している。

「治も食べるの」
「食う」
「美味しいかな」
「今日は同じ事しか言わんなぁ」
「……ほんとだ」
「そういう日もあるよなぁ」

 「まぁまぁ」、キッチンに凭れる治の足が長くて、背が高くて、見上げると、にやにやと笑っていて、目が合う。窘められるような視線を受けて、久しぶりに彼には双子のきょうだいがいるんだったな、と思い出した。付き合っていて長男ぽいなと感じたことはあまり多くは無いけれど。
 計量カップに勝手に牛乳を注ぎ出した治の端正な横顔は非常に生真面目で、後ろから「わ!」と言いたくなる。凄く、とんでもなく、怒られることが予想できているので、小さいボウルにわたしは卵を割り入れた。砂糖も彼に口頭で確認してから分量通り入れて、小ぶりの泡立て器でかき混ぜる。茶こしでマグカップに注ぎ入れると、マグカップが大きすぎたのか六分目くらいで二つのマグカップに収まりきった。「どう?」「分からん」、一人一個マグカップを持って電子レンジに入れて、二分半。
 電子レンジのあたための音を、頬と頬に手一つ分の距離もないくらいの近さでくっついて、眺めて、聞いていた。美味しいかなと聞いたとしたら、また分からん、と言うのだろうか。プリンの表面がちょっとずつ膨らんできて、治は運命論者みたいな顔で回るマグカップをじっと見つめている。

「治って意外と良い彼氏」
「意外は余計やろ」

 残り三十秒、甘い匂いがしているようなしていないような。
 取り出したらラップをかけて余熱で温めて、粗熱を取ったら食べられるらしい。その間にカラメルを作るべきだろうか、あ、紅茶と珈琲を淹れようか。
 前しか向いていない自分の思考がどうしてそんな風になっているのか、いつの間にか、治がそうしたのだ。やっぱり、意外と良い彼氏だ、わたしには勿体無いほどの。
 ピーという音と同時にマグカップを取り出そうとした治が、「あっつ!」と持ち手を触って大声を出す。タオルにつつんで二個のマグカップにラップをかけようとしているわたしに「まだかかるんや」と、レシピを出したくせに読んでもいなさそうな事を言う。
 それでもまぁ、良い彼氏ではある。噛みしめながらわたしはヤカンに火をつけて紅茶と珈琲の準備を始める。
 すぐに察してソファに戻っていく治の後姿はやけに自慢げで、わたしは冷蔵庫からまた砂糖を取り出してカラメルを作る準備に取り掛かることにした。