「今日送ってかれへんわ」、ぐしゃぐしゃの髪の毛を手ぐしで何度か整えたあとで治が言った。
彼の家に訪れるようになってまだひと月しか経っておらず、律儀にいつも彼は駅の前までわたしを見送ってくれていた。
ぶかぶかのTシャツと短パンからブラウスにスカートという服に着替えたわたしは、駅までの簡単な十五分程度の道を思い出してみる。手の上にUVカットのクリームを広げて両腕、首、鎖骨、露出の有無を問わないありとあらゆる場所に塗り込んでからUVカットのカーディガンを羽織った。姿見の奥にある遮光カーテンは洗濯バサミで等間隔に止められており、外の様子はおろか光さえ入ってこない。
リビングルームは昼過ぎだというのに煌々と明かりが灯って広がっていた。よれよれの部屋着とひとめ見て分かるTシャツと、先程わたしが履いていた短パンの色違いを履いた治は一人分の食事をテーブルに並べてちらりとわたしを見る。昼過ぎだというのに遮光カーテンのごくごく小さな隙間から見える空は明らかにグレイだ。
「いただきます」という治の声を聞きながら、携帯にイヤホンを刺して、片方だけ耳に押し込んで鞄を掴む。治と歩くことが好きなわけではないけれど、一人であの道を歩くのはとてもつまらない。言い訳するみたいにわたしは口を開く。
「ちょっと早いけど出るね」
「……分かった」
「ゆっくり朝、いや、昼ご飯か、食べてね」
「おぉ、ありがとな」
廊下を歩くと足音が聞こえてきて、振り返ることなく靴を履いて重いドアをぐっと押した。ノブの持ち方が悪いせいでうまく開けることができなくて、鞄を持ち直してもう一度力を入れる。ドアが開いて夏特有の湿った、生ぬるい空気が身体中をくるんだ。
わたしをぐしゃぐしゃにしたあとの治が、裸足のままわたしを見ていて、わたしはなんでか見返してしまった。やっぱり送っていく、そう治が言ってくれるような気がしたからだろうか。
次の予定も何も決まっていないというのに、またすぐに会うような顔で「お邪魔しました」と言うとドアは閉まる。鍵の閉める音は聞こえず、マンションの廊下から霧雨が落ちているのが見えた。そういえば今日は雨の予報だった。サァ、という風に落ちていく音のほとんどない雨を背にエレベーターの下りのボタンを押す。その後のどれも、廊下にいる、だとか、エレベーターに乗るだとか、ボタンを押す、エントランスを抜ける、すべてを初めて一人でこなした。
霧雨は降り始めたばかりなのか、傘を差している人はほとんどいない。目の前の信号を逃して、たらたらと携帯から音楽を流しながら駅側の信号が青になるのをゆっくりと待つ。ひたすらに真っ直ぐ歩くだけ、自分を景気づけるためにイヤホンの音量を二つあげて、靴音を強くさせて、わたしは歩き出す。徐々に雨粒が大きくなってきて、傘を借りれば良かっただろうか、と霧雨により一瞬でへたった前髪を指先で避けながら考えた。まだ張り付くほどではないけれど、身体に少しずつ密着してくるカーディガンが煩わしくて腕を少し捲る。
いつも最後みたいに思ってあの家を出るけれど、今日は本当に最後みたいな気がして、わたしは前を向いた。ふと、反対側の道に治が見えたような気がして目を凝らす。信じられない程大きな音で流れる音楽のせいで頭が揺れている気がした。先程までと違う、白のTシャツにGパンで、白がかったビニール傘を一本掴んだ治みたいな男の人が走っていく。もしもそれが本当に治だったら、わたしのために傘を持ってきてくれたことになるのだろうけれど、そんなことをする人ではない。クーラーの効いた部屋できちんとご飯を食べている彼を想像すると、一番まっとうな姿であるような気がした。大きい音で同じ曲を繰り返しループさせながら歩みを進める。先程の、治に似た、いや、治だとわたしに思わせた人はどこへ行ったのだろうと考える。
少し先で、同じような服を着た薄っぺらい鞄を持ち白がかったビニール袋を持った男性がバス停の所に立っているのが見えた。確実な理由はないけれど、期待してしまう愚かな自分を押し殺すためにこの人だったのだ、と心に何度も繰り返し繰り返し言い聞かせる。ついに、他の人を治と重ねてしまったらしい。空虚な事実を飲み込み逃したまま、わたしは進んでいく。携帯を一応確認するけれどもちろん連絡はなく、あたたかいお味噌汁でも治は飲んでいて、外の天気が雨だなんてことも知らないでほしいと思った。その気持ちと同じくらい、あの、反対側の道を走っていった、後ろ髪の跳ねた、かっこいいとは言いにくい走り方で一本道を駆け抜けるその人が治であったらと願った。
身体がじんわりと雨に浸っていって、けれど、電車に乗って迷惑になる程でもないだろう、と大きく見えてきた駅名の看板を視界に納めた。それと同じくして、反対側の道で見掛けたのとやっぱりどう考えても同じシルエットの人が真っ直ぐにこっちへ近づいてくる。顔を見ても、傘を見ても、見覚えのある服を見ても、やっぱりなんにも理解できなくて、わたしは一歩後ろに下がってしまう。なにを伝えたらいいのか、なんと声をかけたらいいのか、そもそも自分がどう感じているのかもわからない。
息切れはしておらず、でも眉を少しばかり下げた治がばさりと音を立てて傘を広げてわたしを入れてくれる。魔法にかかったようにわたしはその中から出られなくなって、手で口を抑えたまま治の顔を見上げた。
「どこで信号渡ったん」
「最初、一番近くの」
「絶対追いつくって思ったら会わへんかったわ」
「治みたいな人が、スーパーの前走ってくの見えて、」
「……それ俺やな」
「でも服違うし、ご飯食べてたし、……あ、ご飯は?」
「食べてへん」
「なんで」と言った声は、涙一つ零れそうにもないのにまるで泣いているみたいに響いた。「しかも傘一本しかないし」、もっと泣いているみたいに響いた声に気付いているのかいないのか、「帰ったら風呂入るし」と答える。
雨が霧雨だったせいか、夏の熱さのせいか、わたしの身体も頭も濡れた先からじんわりと乾いていく。治は家の中やいつもわたしを送る時みたいに全然名残惜しくない顔で身じろぎひとつせずに傘を持っていた。
「鞄、濡れてるな」
「……大したことないよ」
「もっと早く渡すつもりやってんけど、」
「駅から家まで結構遠いから、助かる」
「うん」
言葉がこれ以上重ねられなくて、ただ先程家を出た時よりずっとずっと息苦しい気持ちでわたしは治を見た。傘を畳んで改札の近くに二人でゆっくりと近づく。
これで全部終わってしまいたくて、でも治の事をわたしはまだ全然知らないような、だからもっと知りたいという気もした。改札に定期入れを押し付ける前に一度ちらりと彼を見て手を振って、結局次の約束はないまま、わたしは傘を掴む。
家の最寄りはまだ雨が降っていないような気がした。髪は乾いていて、カーディガンも張り付く様ないやな感覚がなくなっていて、でもこの駅周辺は霧雨で、治は今からあの家に帰って行く。ホームに下るエスカレーターに乗ったあと、一瞬で濡れている傘のボタンをきちんと止めながら、あの、視界の端に残る治の姿を思い出した。
一生忘れない記憶なんてあんまりなくて、多分この事も一年後には忘れている。だから、今だけは馬鹿みたいに何度も、擦り切れてしまって、間違ってしまっても、思い出し続けよう。髪を濡らして、駅前で傘だけ持って、わたしの所にやってきた彼の顔や、真っ白いTシャツを。もう二度と会わないとしても、また直ぐに会うことになるんだとしても。
電車の座席に腰を下ろしたわたしは息を吐いて、ありふれたビニール傘の白い持ち手を強く握り締めた。