わたしの家の筈なのに、エプロンをつけた治がまるで新妻よろしくそこにいて、「おかえりぃ」とわたしを見てやわらかく微笑んだ。
確かにいつもと違い珍しく前々から予定をおさえられていて、先に家に入っててと告げてはいたものの。
テーブルに並んでいる料理の数々から漂う美味しそうな香りに、わたしは鞄と上着を放るように片づけて、手を洗いに洗面所へ向かう。聞こえる「何飲む?」との声に、「あったかいの」と答えると、またコンロの火のつく音が聞こえた。
今日は別に何の日でもなく、給料日でもなければ、誕生日でも、もちろん付き合った記念日でもない。
手をタオルで念入りに、意味もなくだらだらと拭きながら、わたしが何かを忘れてしまっているのだろうか、と真剣に考えた。ゆっくり、治の顔色を窺う様に部屋に戻ると、見間違いではない料理の数々がテーブルに美しく鎮座している。二人分の湯気が立ったお茶を持ってきた治が先に奥の椅子に腰かけて、わたしにも座るように、と目で促してくれる。何か祝い事があっただろうか全く思い出せない困った、というわたしの頭の中を見透かすように治が口を開く。
「早いけど、クリスマスパーティ」
「……そういうこと!」
「なんやと思ったん、顔面蒼白になっとったけど」
「いや、記念日的なものを忘れてたかと思ってぞっとした」
「全然ちゃうよ、ほんまはクリスマスにしたかってんけどお互い仕事やろ、ちょい早いけど二人でなんか過ごしたいなぁって」
「そういうことね。頭回ってなかった」
「俺がやりたかっただけやし」と言って、治はけろっとした顔で笑っているけれど、わたしが同じものを同じように作ったらどれだけの時間がかかるのだろう。きっと、手際もよく作り慣れている彼のことだからわたしが想像するよりは負担が軽いのかもしれないけれど、それでも美味しそうかつ美しく飾られた料理に対しては、感嘆と同じくらいの申し訳なさが出てくるのも仕方がないことだった。
本当に引け目を感じる必要なんて一切ないのだと、治はその底が見えないほどの深い愛で、けろりと言ってのけるのだと分かっている。いつの間にか黙りこくっていたらしいわたしに痺れを切らしたのか、取り分けてええ?と言い出した彼がお皿に料理を取り分け出す。渡されたお皿を受け取る時に目が合って、わたしの瞳の奥にあるどうにも切り離すことのできない劣等感みたいなものを隠す瞬間を失った。合ったままの視線を、彼が逸らすでもなくただじっとこちらを見詰めていて、澄んだ、澄みすぎている瞳に打たれたように動けなくなってしまう。
「嫌、やった」
「違う違う、だってわたしも仕事してるけど、治も仕事してるわけじゃん」
「おう」
「でも治はこうやってイベントごとで色々してくれて、全然わたしは駄目だなあって思って、反省を」
「俺はなんか、あれやけどな、その、イベントとか忘れてる七宝がらしくていいけどな」
「料理も治に頼りっぱなしみたいになってるじゃん」
「そんなんいつも言うてるやろ、得意な人とかやりたい人がやったらええねん」
治の声は瞳と同じくらいに澄んでいて、聞いているだけで凝り固まっている自分の考えとか意地みたいなものがほろほろに崩れていくのが分かる。うん、そうだね、と先程の半分ほどの声で頷くと、治は「そう思わせてごめんなぁ」と言って、眉を下げた。
料理の、彼の手作りのご飯の匂いがどんどんと薄れていく。わたしは強く、はっきりと首を振ると、髪の毛が一緒に大きくぶんぶんと揺れて、治も、わたしも一緒に同じ温度で、やっと笑い合うことができた。
「食べていい?」
「どーぞ」
「いただきます」
「いただきます」
「これなに」
「こっちは」と、治が大皿をひとつずつ指先していく、短く整えられた爪の形やほぐれたあたたかい声を聞きながら、料理を口に運ぶ。冷蔵庫にケーキでも入っていそうだな、と思いながら彼の声を聞き、声と同じあたたかく柔らかく泣いてしまいそうなほどやさしい料理が身体に染み込んでいく。
治も話をしながら料理に口をつけ、「美味しいよ」ときちんと言葉にしたわたしを見て安堵の表情を見せる。
二人で他愛のない、わたしが治にクリスマスに何が欲しいかを尋ねたり、という話をしながら料理はみるみる減っていった。
身体に入っていくたくさんの食べ物は治が作り上げたもので、こうやって、わたしの血が、肉が、骨が、治の作るもので形作られていく。いつの日か、治の身体もわたしの作るもので構築されて、わたしの身体も治の作るもので構築されて、お互いの身体が同じ割合の人間になっていくのかもしれないと思ったら、悪くないことだと思えるのだった。
また一口、美味しいという言葉と一緒に食べ物が身体に染み込んでいくたびに、わたしの身体が治に染められていく居心地の良さに、病みつきになっているのを感じて、悪くないなんてものじゃない、それが一番いいことなのだと断定的に思う。