どうしてこんなド深夜にわたしは車に乗っているのだろうか、という気持ちでそのままわたしは動けないでいる。シートベルトをしっかりと締めたまま、無言で車を走らせる信介くんの横顔を黙って見つめていた。
繁華街で待ち合わせをした筈なのに、車はどんどんと見慣れない、繁華街とはまた違う道に進んでいく。
信介くん自身に迷いはなさそうで、カーナビをつけることもなくハンドルを握っていた。ちらりと顔を伺うと久しぶりに見た彼の頬は少しだけ削げているようにも見え、疲れの影も見えた。車と外のちらちらと入る光のせいなのかもしれないけれど、彼の顔に残る影に目線が吸い寄せられてしまう。それでもなぜ、わたしを拾い上げて車に乗せているのだろうか、という疑問を抱えているせいで。
どこへ行くの、という質問を受け付けていないことくらいは分かっていて、先制で「ちゃんと送ったるから」とまで言われてしまっていると、会話は無くなってしまう。
いつもならかかっている音楽を流すこともなく、だからといって勝手に何かを流すことも違うような気がして、切り取られた夜の世界が流れていくさまを、信介くんの横顔と交互に見るばかりで時間は過ぎていった。
冬の寒さを誤魔化すように吐き出されているあたたかい空気と、車に乗り込む前に買ってくれたあたたかい紅茶をたまに手に取って暖を取る。
「今日は静かやな」
「だって、なんかどこ行くのか分かんないし」
「ビビっとんのか」
「違います」
「もう直ぐ着くから」
子どもをあやすような柔らかい声が聞こえて、視線を向けると、一瞬だけ目が合って、信介くんの方が先に目を逸らした。瞳に入っていた光だけが残滓のようにわたしの瞳に移って、ちらちらと残って燃えている。
彼は言葉を誠実かつなるべく正確に扱おうとするから、その言葉通り「もう直ぐ」の時間で車はゆるゆると停車した。後部座席に準備されていたらしい見たこともない分厚いストールを掴んだあとで信介くんが車を降り、追いかけるようにわたしも車を降りる。
出てみると、そこは明るいときであればそれなりの賑わいを見せる観光地の入り口に設えられた駐車場だった。時期と時間のせいでただの閑散とした野山の景色が広がっており、それをただじっと見ていると、後ろから布がかけられたのが分かった。
信介くんが先程持っていたストールは分厚いわりに生地自体が柔らかくあたたかく、触れただけで如何にも高そうなものだ。「寒ないか?」と彼が顔を覗き込むようにして目が合う。ストールをきゅっと胸元に集めるようにして握ったあとで、小さく首を振ると、信介くんが息を吐く様に微笑む。
「見てみ、」
「あ、」
「凄いよな」
「すごい」
「俺、こっち来てから初めてこういうとこ見てん」
「うん、綺麗」
暗闇に目が馴れ、彼の指が指す方向を見つめると殆ど丸に近い形の月と、フレークのように散りばめられた星がいた。月はまん丸のオレンジの皮を一度だけ削いだような形で、きっちり満月じゃない所が更に魅力的だった。
まじまじと見ることも減っていた月の表面の模様みたいなものを息をつめてじっと見ていると、刺さるような視線を感じる。横を見ると、信介くんがわたしを見ていて、口を何度かもごもごと動かして、何かを言うのを止めてしまう。言いかけた言葉の中身は分からなくて、代わりにストールをかき抱いて、顔を上げて月を見る信介くんを見つめた。
わたしに比べると些か薄着に思える信介くんの真隣にわたしは立って、ストールの半分を彼の反対側の肩にかける。背も高く、身体もがっちりとしているぶん難しく、肩に布がかかったことに気付いた時は、キスをするときと同じくらい顔は近くにあった。唇が触れ合うなんてことはなく、信介くんはただ意図を理解してストールの半分を自分の方にも引き寄せ、わたしの肩に自分の肩をくっつけてくれる。
それから、寒いんだかあったかいんだか分からないまま、二人で真っ黒な空にぽつぽつと浮かぶ星を、オレンジのような形の月を見ていた。
信介くんがちいさく身じろぎをして、ストールをわたしに巻きなおしてくれた時、人間の身体がもっと寒さに強ければ良かったし、時間が永遠であればよかったと心底考えてしまった。それでも信介くんが手を引いて、ドアを開けて車にわたしを入れてくれるから、簡単にあたたかいいつもの彼の車に舞い戻ってしまう。
ストールから信介くんの、普段は田んぼ仕事をしているから滅多に使わない香水の匂いがふんわりと漂っていることに、助手席に座り一息ついた頃、わたしはやっとそれに気付いた。運転席に戻ってきた信介くんがなるべく静かに、という動きで車のドアを閉める。直ぐに発信するのかと思いきや、信介くんがハンドルに手をかけたまま、少しの沈黙の後にわたしの名前を呼んだ。
「クリスマス、今年も一緒に過ごせへんから」
「あぁー、うん、気にしてないよ」
「これ、早いけど、」
「え」
「あと、ここももうちょい余裕ある時に一緒に来たかってんけど、時間無くて変な時間になったわ」
「……いいのに、わたし、なにも今日準備してないよ」
「七宝がおるだけでええよ」
彼が差し出した袋は見覚えのあるもので、けれど自分で手を出すものではなく。彼の可愛い後輩の御用達であるというだけの認識で。
小さな紙袋に入った小箱をそろそろと開けると、農作業をする時とは違う、街中をデートする際に彼が腕にはめていることのあるブレスレットと同じようなデザインの指輪が、車の中のオレンジのぼんやりした明かりのなかで煌いていた。値段を考えるだけで眩暈が酷くなりそうだというのに信介くんは何故か不安げにこちらを覗き込んでいて、絶句しているわたしにかける言葉を探しているようだった。
指輪が重い云々という話ではなくて、その指輪にはまっている石のサイズだとか煌びやかさだとかに気遅れしてしまうというか。
「サイズ、ちゃんと頼まなあかんかったから、今度一緒に店行こう」
「えっ、と、身の丈に、合ってなくない、いいの、大丈夫」
「なんなん、別に似合うやろ」
いやいや、と箱を握りしめているわたしを見て僅かに眉間へ皺を寄せ不服そうな顔の信介くんが、箱を勝手に奪い取って指輪を引き抜き、当たり前のようにわたしの左手を取った。
入らなかったらどうするつもりだろう、と考えたところで、先日彼に手を取られて「痩せたんちゃう」といつもでは考えられないほど長々と触られたことを思い出した。
滑り落ちないけれど、ジャストフィットというわけでもないまま、至極当然のように左の薬指にはめられた指輪を見て信介くんが「完璧やな」と言った。
ちょっと大きいとも、指輪がはまっている指の意図について深く何かを言えることなく、信介くんの耳朶がほんの少し赤くなっているかも見ることができないまま、唐突に車は走り出す。まるで指輪をはめることが発車の合図とでも言わんばかりに。
左手の薬指にはまった、ちょっと緩いような、でもサイズが合ってないというほどでもないそれを何度も触って、車が月からも星からも遠ざかっていく頃、まだ肩にかけっぱなしだったストールを触りながら「ありがとうございます」と頭を下げると、信介くんはこちらを見ることもなく、「似合うとるよ」と言って、真正面ばかりをじっと、見ていた。