くつくつと音を立てる鍋をぼんやりと眺めていると後ろから抱きすくめられて、「まだぁ?」と間延びした声がした。振り返ることもなく、なんだか弟ができたような気持ちで「まだ」と答える。冬をテーマにした楽曲ばかりの流れるテレビの音声を聞きながら、水切りトレーの中で水滴を残したまな板を見た。身じろぎひとつしないまま、彼に抱きすくめられて、オレンジ色のホーロー鍋の中身の、少し甘い匂いを吸い込んでみる。
たとえば、ニンジンを星形に切ってみるだとかいう、大根の面取りや手綱こんにゃくとは違う、厳密に言えば意味がなく必要もないのにわざわざそういうことをする女の子が本当にこの世に存在する事を知ってびっくりした。きっかけは翔陽で、粛々淡々と無機質に野菜を切っているわたしに向かってどこか納得したような目線を向けたからだった。掘り返してみれば実家で妹さんから同じようにシチューを作ってもらったある時に、星形のニンジンが入っていたらしいのだ。良き、悪き、についてではなく、愛子はそう切るんだな、と言うから、女の子らしさだとかそういう部分に言及せずどちらのことも否定しない翔陽がいいと思った。
くつくつ、炒めた時点でバターと混じりあって甘い匂いを漂わせていた玉ねぎが、少し柔らかくなったじゃがいもが、小ぶりの鶏肉が、星形ではないニンジンがやわらかく煮え立つのを、少し前まで灰汁を取っていたお玉を片手に見つめていた。逆さにして小皿にお玉を置いたのを見計らって翔陽がこちらに来たのかもしれない、と久しぶりに感じる異様な身体の熱さがじんわりとこちらにやってくるのを感じながらわたしは考えた。あたたかいと熱いの中間地点みたいな体温。思ったよりもすっぽりと抱きしめられて、首筋に彼が顎を置いて、猫なで声を出す、待ちきれないという風に。
「食べてこなかったの」
「だって作るって言うから」
「まさかこんなに早く来ると思わなかったんだよね」
「おれ、めっちゃ急いだもん、今日」
「そうなんだ」
いつもと同じ会話の筈なのに、翔陽の腕に包まっているだけで、なんだか特別な感じがした。
彼の腕の中に入る、というのと、抱き合う、抱きしめられるというのは多分ちょっと違う。腕に入れて貰うことはたまにある。感覚も記憶も簡単に薄くなっていくので、全く会えていないときに久しぶりに翔陽を見るたび、いつもわたしは新鮮に驚く。翔陽がわたしの想像上の人物ではなく、なおかつ、まだ彼がわたしを彼女だと思っていることに、そしてきちんとそれに喜べる自分にも。
だから彼の腕の中に十秒も満たない間入り込んで、彼の香りを吸い込んで、洋服の生地に目を凝らして、納得する。ここも自分の居場所だったのだと、翔陽の居場所のひとつもたぶんここなのだと、理解し直す。
手を伸ばしてコンロの火を止めると、ふつふつと休みなく動いていた鍋の表面がゆっくりと静かになっていく。チーズのような、クリームのような甘い香りが空腹感を刺激する。待っていた筈のシチューができても、わたしを離すことのない翔陽の腕の中から離れるタイミングを見失ったまま口を開いた。
「できたよ」
「ん」
「どうしたの」
「こっち見て」
腕が緩められ、わたしは身体を内側に向けて顔を上げると少しうつむき加減の翔陽と目が合った。隙間なく埋められた睫毛の若干ニンジン色をした一本一本を見詰めていると、離れていった腕の感触の代わりに彼がわたしの手を掴む。てのひらをこじ開けられ、彼が押し付けた金属質のごつごつとした形にゆっくりと手を開くと、鍵が入っていた。
「渡すの忘れてたから」
「翔陽の家の?」
「そう」
「ありがと」
「なぁ、俺よそっていい?」
「いいよ」
わたしは奥の部屋に戻り、ゆっくりとてのひらに収まっている鍵をまじまじと眺める。部屋の隅、彼にあげようと思っていたプレゼントはキーケースだった。鍵を貰い、鍵を入れるものをあげるなんて似ているようで似ていない、でもやっぱり全く似てないともいえない、わたしたちみたいだ。こう思うのも都合のいい幻想なのかもしれないけれど、「入れすぎた」と大きな声を出す翔陽の所へ戻るために立ち上がる。
いいクリスマスだ、歌う様に呟くと、聞こえていたのかいないのか、大皿を手にしたまま振り返った翔陽がテレビを見つめていた。
テレビの中で流れている有り触れたクリスマスソングを静かに口遊む翔陽の甘い声が、キラキラと響いている。