Sprinting



 基本姿勢は受身がデフォルト。選り好みはしない。ただ彼女がいるいないに関係なくアタックしてくる女は好きじゃない。そういうところは真面目にいきます、意外に。付き合ってと言われたら付き合うし、もう別れようと言われたら潔くさよならする。固執はしない、追いかけない、もともとそれほどの愛はないから。好きだよもさよならも幾度となく繰り返した言葉で特別な意味なんかない。だから俺の言葉は彼女の胸に届かない。今日は昨日の延長線上、続きにあるから、デフォルトの姿勢の怠惰はいつまでたってもだらだら尾を引く。全力疾走でよろめいた。こういうのに誂える言葉がある。はい、自業自得です。

「ねえ最上さん、俺ほんと、最上さんのこと好きなんだよ」
「及川くんそれ二枚目が二枚重なってるよ、あとホチキス取ってくれない?」
「本当だ、気付かなかったありがとう、はいホチキス、ねえ、最上さん聞いてた、さっきの」
「聞いてたよ、スルーしただけじゃん、むしかえしたらだめだよ、ありがとうホチキス」

 はい、とホチキスを差し出した手をじっと眺めて、唇をくっとすこしだけ釣り上げたこのうえなく完璧な笑顔をじっと眺めて、彼女の言葉を咀嚼して、悔しくて悔しくて仕方がなくて、ホチキスと彼女の右手とを一緒くたに握った。最上さんはにっこりと笑って言う、なに、それがいつもの手口なの。声に滲む不機嫌、笑顔は冷たい。俺の右手と彼女の右手は当たり前のように離れて、ホチキスはかしゃんと高い音を立てて机の中央に落ちた。
 ふたつの机を向き合わせた教室の隅っこ、俺は感傷を悟られないように笑ってまさかと答えた。けれど最上さんは俺の必死の作り笑いをやっぱり無視して、てきぱきとB4の用紙をふたつに折りたたんでゆく。まるで俺がここにいないように振る舞う、彼女はひどい女の子だ。彼女の肩越し、窓外はオレンジに染まる。
 高校三年生のクラス替えで初めて好きな女の子ができた。恥ずかしながら初恋で、それが彼女、最上さん。俺は彼女のことを最上さん、と呼んでいるけれど本当は俺に名前を呼ばれることすら嫌だと思っているのかもしれない。なにせ彼女の友人は例外なく彼女をと呼ぶのだから、つまり、俺は友人としてすら認められていないということだろうか。ぐっと伸ばした背筋がきれいで思わず目で追ったのが始まりで、進展は今のところ皆無、気配すらない。それどころかどうやら俺は彼女に相当嫌われているらしい。過去の経歴に問題あり、おそらく、絶対。

「ごめん、むしかえすけど、」
「むしかえさなくていいよ、ちゃっちゃとやろっか、明日までにやっとかなきゃだめだし」

 積み上げた用紙をたしたしと叩いて最上さんが笑った。B4のそれを二枚重ねにしてホチキスで留めるのが俺の仕事、それを二つ折りにするのが彼女の仕事。明日の5限に行われる予定の全校集会の資料で、これは学級委員の最上さんが担任に言いつけられた雑用で、俺は今日が月曜日でバレー部の練習がないのをいいことに頼まれてもいないのに教室に居残って、先行するのは優しさよりも下心、逆転のハッピーエンドを狙っている。
 ごめん、及川くんのこと、よく知らないし、えっと、わたしには勿体ない、かな。帰宅中の最上さんを呼び止めて好きだと告げた、そのときの彼女の答えがこれ、俺を傷つけないために選び抜かれた響きのノー。俺は彼女に好きだと確かに言った気でいるのだけれども、実際には好きだとかそういうニュアンスのことを言ったような気がする。
 今まで、人生のすべてをバレーに捧げるようにして生きてきた。誰かに自分から好きだと告げることは恥ずかしながらはじめてだった。だから脳天に直撃する痛みを知ったのもこのときが初めて。俺が愛のない好きだよとさよならで人に与えていたものと同じそれに頭が真っ白になった。受身がデフォルトの俺はスタートダッシュが甘い、それに気づくのすら遅い。何度も好きだと告げたけれども駄目だった。その度に最上さんは迷惑そうに眉を顰める。
 好きだよもさよならも幾度となく繰り返してきた、俺の声を介して放たれるそれらは特別な意味を含むことができない、つまり彼女の胸に届かない。追いかけられることを早くに覚えた、だから追いかけることを知らない。全力疾走の仕方を知らない、誰かが教えてくれるものじゃない。上手くやる術を知らない、正しい発音で名前を呼べない。自業自得に唇を噛む、その行為も実を結ぶことはない。
 ぱちぱちとホチキスを鳴らしながら俺の両目は最上さんの仕草をいちいち丁寧に追いかける。長い睫毛を見せつけるように瞼を伏せて自身の指先を追う視線だとか、細い肩だとか、時々指先を滑らせて撫でる首筋だとか、似たような体格で似たような仕草をする女の子なんて他に何人も知っているというのに最上さんのそれが、それだけが特別に見える。そういう全てが私物になればいいのにと思う。よろめいた足で疾走している、凛と真直ぐに伸びた、女の子の薄っぺらい背中を探して。
 疲れたなぁ。最上さんがぽつりと漏らして白紙と共に細い腕を投げ出した。細くて、少し日に焼けた、彼女の腕。明日は今日の延長線上、続きにあるから、今日この腕を取ることができたならば明日の充分すぎる保障になる。最上さんのぐっと伸びた綺麗な背筋に目を奪われて以来、彼女のすべてに目が眩む。笑ってください、信じてください、初恋です。願わない日はないのだ。
 ホチキスを傍らに置いて投げ出された白い左手に右手を被せて最上さんが拒否した話題をもう一度むしかえす。信じてもらえるまで言い続ける覚悟があった。これは本当のことだ。けれど右手の甲を最上さんの右手に思いっきりつねられて、俺は感傷を悟られぬように曖昧な笑顔を作った。そしてまた傷を負う。及川くん、こういうの、手口なの。こういう簡単な一言に。
 俺は俺が彼女に貰い受けた分の痛みを他の誰かに与えていた。必至に振りしぼった声で好きだとかそういうニュアンスを微妙な言葉で俺に伝えてきた女の子に何度も酷いことをした。好きだとさよならを幾度となく繰り返して、合わないなら諦めて、感傷を押し隠した潔い笑顔を無視した。だからこれはそのしっぺ返し。胸が痛むのは見当違い、はい、自業自得です。

「、痛い」
「えっ及川くん、ごめ、そんなに強くやったつもりは」
「自業自得が、痛いよ、最上さん」

 振り向けば最低な自分が見える、それは事実。だから信頼がないのも頷ける。真面目な彼女なら尚更、きっと彼女の賢い両目には俺は相当の危険人物に映っている。汚い手口で落として捨てる、そういうふうに映っていることだろう。自業自得を呪います、けれどそういう怠惰はもう捨てたい。初めて追いかけることを覚えた。誓わない日などないのだ。
 右手の甲が微かに痛む。いったい俺がいまどんなに情けない顔をしているのか、簡単に想像がついてしまうから伏せた視線を上げられない。
 冷たい左手の持ち主の顔を窺い知ることはできない。受身がデフォルト、余裕ぶったポーカーフェイスが基本。それをいとも簡単に崩す最上さんが欲しい。俺の私物になってほしい。
 最上さんがゆっくりと呼吸する、そして静かに俺の名前を呼んだ。及川くん。彼女の声に名前を呼ばれるたびに、心臓が変な音を立てるのが今のデフォルト。受身の俺よりずっと良い。

「そんな顔されると、信じたくなるよ、及川くん」

 右手が震えた、上げた視線の先にオレンジ色の空、逆光に隠れる表情、はじめて好きになった女の子。俺は最上さんが好きだから、全力疾走も苦にならない。よろけたってまた走れる、転倒したって簡単に起き上がれる。傷を負ったって自己嫌悪に陥ったって諦めきれない。延長線上にある明日のために。
 及川くんはいっぱい可愛い女の子と付き合ってきたでしょ、なんでわたしなんだろって思うんだよ、それに及川くん、わたしがどんなにひどいこと言っても諦めないからそれもなんでかなって思って、ねぇ、本当にわたしのことが好きなの、毎日好きだ好きだって繰り返せるほど好きなの、それは本当なの。
 不安げに眉根を寄せて震えた声で最上さんが言う、繊い声に目が、意識が眩む。猜疑されるのは仕方がない、それはこの手で撒いた種だから、だから俺はこれ以上にないくらい誠実な声を出して答えようと努めたけれども、うまく声にならなかった。喉の奥に空気みたいななにかが詰まった。泣きそうです。でも、口角が上がる。「なっ、なんで笑うの!」最上さんが怒ったような、困ったような声を出した。笑いが止まらなくて両手で顔を覆ったけれども肩が揺れてしまって笑う、またそれに対して声を上げる。「及川くん、わたし真面目なんだよ!」ああもう、知っていますとも。

「どうしよう最上さん、俺、初恋実りそう」
「はっ、はつこ、」
「嘘じゃないよ、俺、自分から好きだなんて言ったの初めてだったから、すごい緊張した」
「うそ、だって全然そんなふうに見えなかった、よ」
「……男は余裕のポーカーフェイスが基本だからね、基本的には」

 基本的なことは全部ぜんぶ、ひとりの女の子の前では駄目になる。俺の性能を著しく低下させる女の子は今までにないくらい頬を真っ赤にして唇をきゅっと引き結んで俺のことを見ている。なんだか恥ずかしくなって気まずくなって、俺はまた余裕ぶることを放棄してかっこ悪い顔で笑う。手放しで信じてくれて構わない、絶対に裏切らない。
 回数言えばいつか信じてもらえるって思ってたけど、そういう問題じゃなかったんだなあ。零して俺は姿勢を正す。嘘っぽい愛の言葉と愛の無いさよならを幾度となく繰り返してきた俺の声はもう正しくそれらを言うことはできないかもしれない。けれど、彼女に渡すそれが最後だから信じてほしい。身体の中心からの声だから。
 今日は昨日の延長線上、生きてきた毎日が今日の俺を作っている。だから過去のデフォルトがいつまでもだらだらと尾を引く。なかなか断ち切れない。けれどよろめきながらも全力疾走。自業自得を知っている、だから誰のせいにもできない。この身体でぶつかるしかない。手口なんかじゃありません、初めて見せる限界間際の本気です、信じてください。

「ねえ、俺ほんとうに最上さんのこと好きなんだ。だから最上さんも俺のこと好きになってよ」
「……っ、いっいまのはそういう手口でしょ!」
「あぁ、バレた?最上さんにしか言わないよ」

 羞恥のためか真っ赤になって泣き出しそうな顔をする彼女が可愛くて可愛くて、思わず強襲でも働きそうになったけれどもぐっと抑えた。オレンジの窓外、山積みのプリント、この瞬間の延長線上に明日が来るのだ。
 全力疾走で行こうと思う、心臓が変な音を立てる方向へ。