背中から感じる温もりにぱっと目が醒めた。窓からグラウンドを見下ろすとユニフォームを着た生徒達が一生懸命部活に励んでいる姿が見えた。空はまだ少し明るい。教室には誰もいない。じゃあ後ろのこの温もりは。頬に相手の髪の毛が当たって少しだけ擽ったい。相手の腕を払い、机に伏せていた顔をあげ横を見ると其処には隣のクラスの及川。青葉城西の生徒で及川を知らないなんていう奇特なやつはそういないし、いたとしたらそいつはモグリだ。バレー部のエースで、かっこいいとよく噂されてて、人懐っこくて、友達がたくさん多い。そんな及川とは数度挨拶を交わしたことがあるくらいで仲良いとは決して言えない関係性だ。そんな彼が何故ここに居るんだろう、そもそもさっき俺に抱きついてきたのは本当に及川なのだろうか。否、足音もなにも聞こえなかったわけだし此処にいるって事は確実に及川なんだろうけれど。一向に解決出来ない出来事に及川を見上げながら首を小さく傾げる。
「俺の、ボディガードになって」
ゴーンゴーン、脳内でベルが鳴り響いた。そう、何か祝福する時になるあのベルの音。しかしこれは祝福事なんかではない!仲良くない人から突然ボディガードになってくださいって言われて、はい分かりましたなんて答える野郎が何処にいる。…彼の幼馴染みとやらであると有名な岩泉はどこにいった。未だに言葉を発しない俺から視線を全く逸らさない。ああ、冗談じゃないんだろうな、とは思う。
「ずっと実沢の事好き、で。でも色んなおんなのこに言い寄られて困ってるんだよねえ」
「……他の人に頼んだほうがいいと思うけど」
「実沢じゃないとやだ!」
どうしたらいいんだろう、俺は。助けて花巻、と友人に助けを求めたところでこれは逃れられる問題でもなさそうだ。簡単に脳内で整理をしよう。及川は恐らくゲイでそんな及川は俺の事が好きで、おんなのこにモテモテなイケメン及川はそんな日常にウンザリしてきたから好きな俺にボディガードをしてほしい、と。
「なあ、及川どういう事?」
俯いていた顔をあげ及川に問いかけた。しかし目の前はしんと静まり帰った教室に並ぶ机と椅子だけ。及川の姿は何処にもない。「もしかして夢でも見てたのか」妙にリアルな夢だ。再び窓の外に目線を移せば部活を終え帰り支度をしてる生徒が数人いた。「俺はやっぱり女の子とキャッキャウフフな生活が送りたいです」誰もいない教室に俺の声が響き渡る。可愛い女の子と順風満帆な恋愛をして楽しく生活して死んでいくっていう俺の計画がある。どうか先程の夢が現実で起こりませんように、そう願いながら教室を出た。
「伊澄ちゃん、おはよ」
「……お、はようございます」
あれは夢ではなかったのか。なんで目の前にニコニコした及川の姿があるのか。なんで周りの人々に「おい珍しいぞ」「あいつらどうしたんだろう」とジロジロ見られなければならないのか。今すぐここから立ち去りたい。仮病でも使って休むんだった。「及川、あの」「徹」「は?」「名前、徹」「無理無理無理」「別にいいけど。じゃあまたね」そう言い軽やかに立ち去った彼の背中を見つめる。昨日の話を聞くタイミングはないし、ニコニコ笑う及川を見たらそんな事聞けなかった。じっと後ろから観察していると、明らかに及川が大好きですって感じの女子が及川に「あのひとなに」と怪訝そうに此方を見ながら問いかけている。……及川ってほんとにモテるんだろうなあ。確かにかっこいい顔をしているとは思う。
「ねえ、あんた及川くんの何なの」
「えーっと、」
「伊澄ちゃんは俺の恋人」
思わず間抜けな声が洩れた。目の前の女子も、周りにいた人達も驚いたように及川を見つめている。「だから君の気持ちにはもう答えられません!ばいばーい」俺はボディガードになったかもしれないけど恋人になった記憶は一切ない。……もしかしてボディガードになるって事はこういう事だったのだろうか。もしかして上手い事俺は利用されてるだけなのか。それはそれで何だか腑に落ちない。それにしても絶望したような表情を浮かべる目の前の男の顔は少しだけ笑えた。
「ねえ、どんだけ寝るの」
気付けば放課後。昼休みまでは確かに起きていたはずなんだけれど。窓の外は昨日と同じ光景。大きい声が飛び交っている。そして横には及川。これも昨日と同じ光景。ただ少しだけ違うのは昨日より時間が早い。まだ最後の授業が終わって数分しか経っていない。ああもう少し寝たかった、まだ眠たい。
「俺、お前のこと好きなんだよ?」
「うん?」
「そんな無防備でなにされても知らないから」
「……ん、?」
ふに、頬が少しつぶれた。その原因は頬に何か柔らかい物が当たったから、だと思う。あれは何だ?指にしては柔らかすぎると思うし、「ほら、はやく、俺部活行くから、二階で見ててよ」俯き考え込む俺を無視して何事もなかったかのように先に廊下へと消える及川の姿を見届ける。少しだけ耳が赤かった、ような。「……いま俺は何された?」ふわふわしていた脳内が徐々に覚醒、先程の彼の言葉、頬にあたった感触を思い出しながら頬を擦る。
「……え?」
廊下から伊澄ちゃん!と叫ぶ声が聞こえる。「い、いま行くから待って」相手に届くはずのない声量で言葉を返す。どうしよう、俺の人生が180度変わってしまう、変えられてしまう、そんな気がした。