その日ばかりは、駅から家までの道のりを酷く長く感じた。
基本的に部屋を選ぶときは駅から徒歩8分圏内と決めているので、決して遠いわけではないのだけど。ヒールも、スカートも、足が縺れて絡まりそうになるくらいには走る場面に全く適していなくて煩わしい。
駅前の喫茶店にでも入っていればいいのに、彼はマンション近くの公園にいると言う。律儀なのか、その雰囲気に酔っているだけなのかは知らないけれど。公園前を通りかかると案の定、街灯に照らされたベンチで携帯ゲーム機を弄んでいる研磨がいた。
「……おつかれ、」
「え、なに、走ってきたの」
「くるでしょうよ、待ってんだから」
「急でごめん」
「蚊に刺されるよ、こんなとこ」
「さすがにまだ蚊はいないよ」
今日行っていい、と疑問符のない連絡が来ていたのは夕方頃で、わたしがその連絡を確認したのは仕事が終わった後だった。本来の定時より2時間ほど残業をしたあとだったから、彼はひどく長い間、ここでこうして待っていたのではないだろうか。
わたしの住むマンションはすぐ目の前で、動物園で飼育引さんに引き連れられるペンギンのように後ろについてきた研磨が、おじゃまします、と小さな声で呟いた。いろんなことに無関心で無気力なわりに、そういうところが律儀だなあと思う。
「夕飯たべた?」
「たべてない」
「……チャーハンくらいしかつくれないけど」
「うん、それでいい」
それで、いい。一般的に配慮が無いと非難されがちな接続詞は、けれど研磨に於いては無神経さを然程感じない。よっぽど胃がもたれそうにならない限りは作ったものを注文も文句もなく食べる、この無頓着が研磨らしい。彼はわたしがキッチンに立っている間も特になにをするわけでもなく、ソファで携帯を弄ったり、ごろごろと横になったりしている。
こうして急に会いに来るなんてことは今まであまりなかったものだから、よもや別れ話でもされるのかと思ったけれど、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
ふと気がつくと、先ほどまでソファにいたはずの彼が真後ろまで来ていた。無言で背後に立つのはやめて欲しい。腰に回る腕は、華奢に見えて思っていたより頑丈だ。
「……なんかあった、って訊いてもいいやつ」
「なんかなきゃ来ちゃダメなの」
「わたしとしてはいつでも大歓迎ですけど」
「ん、」
わたしの肩に口を当てて、少しくぐもった声を響かせる。充電しにきた、と彼にしてはかなり殊勝で思いきった回答が返ってきて、わたしは思わず笑ってしまった。
「……ふつう、そこで笑う?」
「ふ、だって、珍しいから」
「もう絶対言わない」
「ごめんごめん」
ふてくされたようにわたしの肩に顎を乗せる。大抵のことには無関心で無気力、けれど案外簡単に落ち込む性格なのだ。その分立ち直りも早いけれど。
彼の世界にも、わたしの世界にも、大変でどうしようもないことはたくさんあって、それを頑張って飲み込むとき、わたしたちはちょっとだけ、こころを削る。削れた分を埋めてくれるのは、わたしにとっては彼だし、彼からしたらわたしであってほしいと思う。
「充電できたの」
「……もうちょっと」
「あとでじゃだめなの」
「あとでって?」
「ごはんのあととか、寝る前とか」
「大胆だね」
「……そんなつもり1ミリもないんですけど」
炒め終わったチャーハンの火を止めて、くるりと彼の方に振り返る。無造作に結んでいた跡の残る髪に触れると、やっとこっち見た、と日向の猫のように満足気に目を細めた。わたしは勢いに任せて、彼の頭を包み込むように抱きしめる。それからわしわしと力いっぱい彼の髪の毛を撫ぜた。ちょっと、やめて、と弱々しく抵抗する彼に、いつも頑張ってるからご褒美、とふざけて言うと、じゃあお返し、とちょっとだけ雑なキスが降ってくる。
「研磨ってば大胆」
「……うるさい」
「髪の毛ぐっちゃぐちゃだよ」
「鈴子がやったんじゃん……」
「大丈夫、イケてるイケてる」
わたしも彼も、生きてる世界は違うけれど、一緒にいるときだけは、同じ世界を見ていたい。
乱れた彼の髪の毛に触れられる距離を、その時間を、忘れないようにそっと心に焼き付けた。