立派なお人



 なにもかも平凡なわたしには、平凡な人生と平凡な恋がお似合いだと思っていた。くつくつと沸騰するお湯の中にシソの葉を浮かべながら、どうしてこんなことになったのかを考える。
 彼を初めて間近で見たのは、裏の裏、下請けの下請け、みたいな仕事をしているわたしみたいな者まで呼ばれた打ち上げだった。全員と乾杯する、と宣言していた彼は、わたしのところへも例外とせずやってきて、パニックになったわたしは思わず、「お綺麗ですね、」と真顔で口走った。大きな瞳の中で眩く金色に煌めくそれが超新星のようだと思ったからだ。それ女優さんとかに言うやつだから、と彼が笑って、わたしも一緒に笑ってみたけれど、多分顔は引きつっていたと思う。
 その時は、こうして家で彼を待つ日が来るなんて想像もしていなかったし、今でもたまに夢なんじゃないかと思う。シソから色が抜けてお湯がほんのりピンク色になった頃、玄関のドアが開く音がした。

「ただいまー!」
「おかえり」
「なにつくってんの」
「しそジュース」
「へー、オミオミみたい」

 彼の中では、梅干しもしそジュースも同じなのだろう。つかれたー、とソファにもたれかかった彼を眺めながら、わたしは床に放り出された上着やら鞄やらを拾い上げた。器用に一人分のスペースを空けた彼が、おいで、と言わんばかりに手を伸ばす。

「お風呂わいてるよ、」
「あとで」
「ん、」

 わたしも同じように手を伸ばすと、彼は満足気にその手を掴んで、わたしの身体を空けたスペースに収めた。それから「はい、膝枕」と、なんの躊躇もなくわたしの太ももあたりに頭を乗せて、いたずらっ子みたいな笑顔で長い睫毛をぱちくりさせている。

「……」
「んー、照れてる?」
「見惚れてた」
「はは、なにそれ」
「綺麗だなあと思って」
「それ初めて会ったときも言ってた」
「……覚えてるんだ」
「もちろん」

 未だに本気で夢を見てるんじゃないかと思うことがある。けれど彼の頭の重みも、あたたかさも、髪の毛のくすぐったさも、全て確かに感じられる。わたしみたいなもんが、なんて、考えすぎてもう飽きた。

「……なあってば」
「え?」
「なにぼーっとしてんの」
「ぼーっとしてたかな」
「また変なこと考えてんだろ」
「変なことって」
「夢じゃないからな、俺は」
「……なんでわかったの」
「そう言う顔してた」

 俺お前のことならなんでも分かるんだ、なんて、ドラマでも聞かないような台詞をさらりと言って、そのくせちょっとだけ恥ずかしそうにしている。

「名前、呼んでみて」
「なんの」
「俺の!」
「光太郎、」
「はーい」
「ふ、なにそれ」
「いただろ、俺」
「……うん、居た」

 スポーツマンと言っても室内競技だからか、真っ白なのに雄勁な手が伸びて、わたしの首元に触れる。そっと触れるだけのキスをすれば、汗とデオドラントスプレーが混ざりあったみたいないつもの匂いが鼻をかすめた。男くさくて、なのに色気があって、わけもなくどきどきする。首元の熱も、唇に触れた感覚も、大好きな匂いも、全部本物で、全部わたしだけのものだ。

「光太郎」
「ん、」
「呼んだだけ」
「なー、あんまかわいいこと言わないで」
「しそジュース飲む?」
「のむ」

 きっとまたそのうち、夢かもしれない、なんて思う日はやってきて、でも何度でも、彼が本物をくれるんだと思う。冷蔵庫で冷えたしそジュースは、いまのわたしの心と同じ、ひどく鮮やかなピンク色をしていた。