はじめまして僕のこいびと



 目が覚めて、いつもの癖でスマホに手を伸ばそうとしたところで違和感に気が付いた。
 普段はスマホや時計、読みかけの本なんかを置いているはずのサイドテーブルが見当たらないのだ。さらに、よく見ればベッドリネンの柄も色も違う。夏用にと爽やかな淡いブルーのストライプのものに変えたはず。けれど、今わたしを包んでいるのは真っ白なもので。……と、ここまで思い巡ってようやく昨夜のことを思い出した。

 事の始まりはよくある飲み会で、初めましての合コンなんかではなく、よく集合をかけては飲みに行ったり夏になるとバーベキューなんかをしたりという仲間内での集まりだった。確か昨日参加したメンバーはわたしを含めて5人で、女が2人男が3人という割合だった。そう、とてもよく覚えている。明日の仕事が朝早いだとか終電が早いだとかでひとりふたりと帰宅していく中、わたしはどうしても帰りたくなかったのだ。家に帰るのが嫌というわけではなかった。特別な理由があるわけでもなく、なんとなくひとりになりたくなかった。それは、普段より少し多くの金額を支払ったことによる料理のおいしさだとかお店の居心地の良さもあったかもしれないし、昨日揃ったメンバーとの相性が特別よかったのかもしれない。とにかく、理由なんてどうでもよくて、わたしは酔っぱらった勢いに乗じて帰りたくないと駄々をこねた。それを拾ってくれたのが黒尾で、そう、ここは黒尾の家だ。

「あーもう、分かったから。じゃあ、とりあえず場所変えよう。ここからなら俺ん家が近いからそれでいい?適当に買い出しして宅飲みに切り替えようぜ」
「ふふ、それって宅飲みを装ってうっかり手出されるやつ?」
「ばーか、酔っ払いが何言ってんだ。ただの宅飲みだっつーの!」
「えへへ、分かってますよー!あ、わたしプリン買っちゃおうかなあ」
「こんなド深夜に?太るぞ」
「あ、ひっどーい!でもいいもん、食べちゃうんだから」
「わかったわかった。じゃあ後でコンビニ寄ることにして、ここは出るぞ?ほら、鈴子、立てるか?」

 あれだけ酔っていたのだから、少しくらい記憶をなくしてもいいものを。正直に言って、わたしは昨夜のことを一部始終逐一鮮明に覚えているし、お酒のせいで多少は判断能力が鈍っていたかもしれないけれど、昨夜のわたしの行動は確かにわたしの意思によるものだった。
 結論から言うと、というか今のわたしがベッドの中で下着も何も着ていないところからも明らかなのだけれど、昨夜わたしたちは黒尾の家に移動してまた少し飲み直した後そのまま一線を越えてしまった。もちろん、気分が高揚していてその場のノリに流されてしまったというところも多少あるけれど、それでもあの時わたしはこうなることをよろこんで受け入れたのだ。
 いったいいつからだったのだろう。プリンを買うことを笑って許してくれたから?酔っぱらってめんどくさく絡むわたしに優しくしてくれたから?それとも、昨日なんかよりずっと前から?

「お、鈴子、起きた?」

 ベッドに横になったまま目をぱっちりと開けてあれこれ考えていたわたしに気付いたのか、ペットボトルのミネラルウォーターを飲む黒尾が声をかけてきた。胸元に気を遣いながらゆっくりと上半身を起こして、「うん」とだけ返事をする。

「オハヨ。二日酔いとか大丈夫?水飲むか?」
「……おはよ。二日酔いは……んー、だいじょうぶ。たぶん。あ、お水はほしい」

 あれだけ飲んだにも関わらず、頭はズキズキするどころか先程から必死でぐるぐると考えを巡らせていて。「ほら」と渡された飲みかけのペットボトルを受け取ってもまだ、わたしの中で考えがまとまらず動けない。

「なに、俺の口つけたペットボトルなんか飲みたくないってか?」
「……ちがう」
「じゃあ、なに」
「……昨日のこと、」

 わたしがそう口にすると、さすがに黒尾も何から話そうかと考えているのか若干引きつった気まずそうな顔で「あー…」とだけ言った後になかなか言葉は続かず、部屋の中が静まりかえった。

「……鈴子はさ、どこまで覚えてる?」
「ねえ。黒尾はさあ、なかったことにしたい?昨日のこと」
「は?」
「全部覚えてるよ、わたしは。昨日のこと」
「そっか、……」

 またしても沈黙が訪れる。きっと黒尾のことだから、わたしが昨日のことをどう受け止めているのかというのを考えてくれているのだと思う。わたしが昨日のことをなかったことにしたいのかどうか。けれど、わたしの中でそれはもう明らかなのだということに自分でも気付いてしまった。むしろわたしが気になるのは黒尾のことだ。こうなってしまったことを後悔してるのだろうか?

「……鈴子、そのー、昨日はごめんな」
「え?」
「いや、一応さ、手は出さないって言って連れてきたわけで、」
「なのに、手を出されたから?」
「はは……まあ、そういうこと……」

 そこで少し口許を綻ばせた黒尾の顔にわたしもちょっとだけ安心して、ペットボトルに口をつけた。冷たさが喉を通って落ちていくのが分かって、わたしの身体の隅の方の細胞たちも潤いを取り戻したような気になる。

「わたしね、起きて昨日のことを思い出してからずっと考えてたんだけど、」
「うん、」
「ひとつだけ後悔してるとすれば、黒尾のこと、ちゃんと好きだって自覚してからこうなりたかった、かな」
「え……?」
「順番とか、ちゃんとしたかったなって」
「……お前さ、自分で何言ってるか気付いてる?」
「なに」
「それさ、こうなってから気付いたけど俺のこと好きだった、って暗に言ってるみたいなもんじゃね?」
「うーん」
「なに、ちがうの?」
「……」
「まあ俺は?例えお前がその場のノリに流されただけだとしても?お前に触れられてめちゃくちゃうれしかったけど?」
「……えっ!?」
「あっはっはっは!だからお前さあ!」
「なに!」
「顔真っ赤!」
「~~もう!」

 きっとわたしの顔はそう言う今ももっともっと赤くなっていて、身体の熱が一気に上がったのが自分でもわかった。苦し紛れに残っていた水を全部飲み干しベッドの中へ逆戻りしてみても、黒尾の香りで全身を包まれてしまって今のわたしには逆効果。
 すると、ぎしりとベッドの端が沈んで、頭まですっぽりとかぶった布団の上からはぽんぽんと撫でられているのを感じた。

「なあ、鈴子。お前はどうだったか知らないけど、俺はさ、本当言うとずっと前から好きだったんだよね。昨日理性を保てなかったのは自分でもダセェと思うし、酔った勢いでとかマジよくないって思ってるけど。でも俺は、別に雰囲気に流されて誰でもよかったとかそういうのじゃないから」
「……ない」
「ん?」
「ふとんかぶってるから聞こえない」
「んはは!お前、そんな真っ赤な顔して聞こえないとか絶対嘘じゃん!」

 隙間を作ってそっと覗けば、悔しいくらいにぱっちりとした目に捉えられてしまった。その顔はくしゃくしゃになるほど笑っていて、たぶん、わたしはこの笑顔にきっとずっと弱かったのだ。

「ずっと好きだったよ、鈴子
「わ……たしも……です……」

 このまま破裂しちゃうんじゃないかっていうくらいに恥ずかしくて、それでも黒尾から伝えられた言葉がうれしくて。精一杯返した返事は「ちっせー声!」と笑い飛ばされてしまったけれど、するりと伸びてきてそっとわたしの顎を持ち上げたその手も、その後にそっと触れた唇も優しくて、ああずっとこうなりたかったんだなあ、なんて。
 昨日までの自分が見たら都合がいいと笑うかもしれないけれど、このまま潰れてしまわないかと心配してしまうくらいにどきどきしている心臓も、それと同時に広がる柔らかな気持ちも、ようやく気付いた紛れもない事実なんだ。

「順番、逆でごめん。俺の彼女になってください」

 唇がほんの少しだけ離れた瞬間、そう囁いた声を、たぶん、この先も絶対に忘れないだろう。わたしたちの始まりだ。