冷たい頬



「つめたぁ、」

 いつも以上に浮わついた声で、自分の手のひらの冷えように我慢できないといったように伊澄が発した。
 伸ばされた手の先が空気を掻く。何も掴めなかったらしいその右手は緩く握られている。ふわふわと溶ける寸前くらいの曖昧な声が柔らかく俺の鼓膜を震わせた。

 夜久が「バカは風邪ひかないって言うけど、こいつ、ついにアホ過ぎて何か一周して天才にでもなったんじゃねえ?」とけたけた笑いながら、コイツを家へと運び込んできたのは昨夜のこと。一緒に飲もうと街に繰り出したはいいものの急な発熱に耐えきれず倒れたらしい伊澄をここまで抱えてきてくれたのには感謝するけど、まったくもって無責任なやつだ。ちゃっかりしている。

「熱は、」
「……まだ、だめっぽいなや。熱くて、」
「あーあー、かわいそうにな」

 きっと額は熱のせいでじっとりと汗ばみ、あついだろう。けれど、その指先に触れてみるとそれは氷みたいに冷たかった。力の抜けた指は妙に色気を孕んでいる。手が冷たい内はまだまだ熱が上がるんだよ、って言ったのは遠い日の研磨だっただろうか。
 どこから貰ってきたんだろうか、こんな風邪。猫とか犬とかもよく拾って帰ってくる伊澄だけれど、こんなものまで拾って来るだなんて本当に困ったものだ。明日は休講になることが決まってしまった、ついでに長期戦になりそうだなと手もとのポカリを差し出す。

「えー、飲めない、ちゅうして、鉄朗が飲まして」
「バカか、そんなの言えるヤツが自分で出来ないはずないだろ、甘えやがって」
「……甘えたくなるべ?こういうときって、なぁ、弱ってるし」
「うつるだろ」
「そうなぁ、鉄朗免疫あんまない人だし。ちぇー」

 素直にペットボトルを受け取って、伊澄が赤ちゃんが哺乳瓶を持つみたいに両手でそれを包み込む。こぽぽ、と可愛い音をさせて喉へと吸収されていく半透明の液体、しとやかに閉じられた瞼。きもちいいときの、イった瞬間とまったく同じ表情だ。……うわ、やべえ、えろい。色々いらないことは忘れてちゅーくらいしてあげたくなる。

「こ、米炊くの失敗して粥になったんだけど、よかったら食うか?奇跡的なタイミングだろ、別にお前のためじゃねえけど」

 ごくりと生唾を飲み込んだ音を隠すように、バレバレの嘘を吐いて顔に少し出た動揺をごまかす。
 俺をチラリと見やってから間髪入れずに「ツンデレだっちゃなぁ!」と布団から顔を覗かせて勝ち誇ったように笑う伊澄に、何も返せなかったのはまた別の話だ。