「ばれないように連れ出すから、鍵は開けておけよ」
クロがいたずらっ子のような無邪気な顔で笑いながら言う。俺もつられて笑って、何にも知らないふりをしてみせた。強がってるわけじゃなくて、その方がしあわせだから。何にも知らないふりをしてるのは俺だけじゃなくて、クロもいっしょ。
だいぶ、長い長い間外に出ていない(そもそも果たして生まれてこの方外の空気を吸ったことがあっただろうか)俺は空というものが本当は青色をしているんだっていうことくらいしか知らない。そういえば地面が白いリノリウムでないのなら、なんなんだろう。 触れてつめたいだけ感触しか、僕は知らない。
(ばれないようにだなんて、クロ、ねぇ、どういうこと?)
*
クロにぎゅうと強く手首を握られて全速力で走る。並んで走ってわかるのは、クロの背の高さは俺よりずいぶん大きいのだということ。からだの線が細いものだから、今まではどれくらいなのかわからなかったのだ。
小さな頭の骸骨が魔よけみたいに並べられた、俺の部屋とおんなじ冷たい素材で構成された廊下。骸骨たちがカタカタと音をたてている気がしてくるけれど、これは俺の幻視と幻聴がおおきく影響しているのかもしてない。奏でているのは軽やかな旋律でカタカタという音だけでよくこんなにも器用に音がならせるものだと思う。
俺のなかでは本当と、嘘とがはっきりと境界線を持っていない。どちらも不安定な形のままで俺の心を、感覚を、脳を蝕んでいる。もう、狂いそうだ。
俺は目を瞑ったままに彼のすることに身体を連れていかせた。こんなにもはやく走ったのはいつぶりかな、風が痛いくらいに頬に、瞼に当たって、なんだか必然的に閉じていた目蓋のちからを更に強くする。目蓋の裏で熱い光源が弾けたような感覚。
クロはまだ外に出て切ってもいないのに、勝ったとでもいうように笑っている。なにもきたないものが混じっていない、まっすぐで綺麗な表情だ。
「なぁっイズミ、あとちょっとだぞ!ここ、ほら、抜けて!」
おおきくひとつ、ジャンプすればそこからは屋内の湿ったものとは違う乾いた風と、一面紺に塗られた遠くが透けて見えるような天井、いや夜空とかいうもの。ゴウゴウと、揺さぶるような音が聞こえてそのものの大きさに俺は呆然とした。発光するものがチカチカと命を燃やしている。あれの名前はなんだったっけ。
「よかったな、晴れてるし、きれいな夜空イズミに見せれたし、ちょうど七夕だし!」
「なぁクロ、夜、って真っ暗だったんだな」
「……おう、綺麗だろ?」
「うん、こんなん俺、はじめてだろ?わからんことばーっかりなんだけど」
「……あのな、彦星さまと織姫さまっていうのがいるんだよ、知ってるか?」
「……んー?」
「ふたりはな、夫婦だったんだけど、天の神様の怒りを買って一年に一回しか会えないことになったんだよ、ほらあれ、星がいっぱい集まってるところあるだろ?あれがな、天の川って言ってふたりの間を引き裂いてんだ」
「……へー、なんか、えらいひどい話だな」
「でな、一年に一回しか会えないふたりの日、っていうのが、今日なんだ」
「へー!じゃ彦星さまと織姫さま、今会ってんの?」
「……そうなんじゃねえ?わからねえけど」
「ハハハなんなのクロ、突然歯切れわるっ!!」
何度も何度も何年も何年もこんな風に離されて、彦星と織姫は一回でも迷うことはないのだろうか。星を待っているふたりの間には、お互いにしか解らないかすかなひかりが見えてでもいるのだろうか。
そんなにも、お互い想い合うことなんて、果たして出来るのだろうか。
クロは隣でじぃっと夜空を見上げている。キラキラしたものひとつひとつを、刻むように、この時間を焼き付けるように。
幻みたいな夜、だ。もう二度とは訪れることも、出会うこともないだろうこのときを、かけがえのないこのときを、刻む。
「クロ、なぁ、そろそろ、帰ろ?やばいんじゃないの、」
「……イズミ、俺といっしょにこのまま逃げちゃおうか、だめか?」
「……そ、れは、だめだろ、逃げれねえよ、おれは」
「でも、イズミ、外に出たのって今日が初めてなんだろ?俺さ、彦星さまと、織姫さまに願ったんだよ、俺はともかく、イズミを開放してくれって。俺は大王様に近い立場だし、黒魔道士だし、比較的自由に動けるから外を知ってっけど、イズミは産まれてから、ずっとなんだろ?いいだろ、外に出たって、許して貰えるはずだって」
「おね、がい……」
それはちがうよクロ、俺が赦されるときは来ないから、と思うけど、言葉が詰まってうまく何も話せなかった。しかも、クロが一緒じゃない世界なんて、一体何の意味を持つんだろう。
こんなふうなときに、言葉を伝えずにも繋がることができればいいけど、俺はまだその方法が見つけられない。本当は今、ちょっとクロに触りたい。風だと思ってくれていいからさらけ出した俺の気持ちの一部を、受け止めて欲しい。
「……イズミ、帰るか」
「……うん、ね、クロ、」
「……へ、あ」
振り向いたクロのくちびるにやさしいキスをした。触れるだけの、偶然に鼻が当たっちゃったみたいな間抜けなキス。
クロはびっくりしすぎなくらいに驚いて、下を向いた。俺よりずいぶんと高い背のせいで、俯いても丸見えなクロの顔は真っ赤っかで、「はじめてだったんだぞ」と勝手な俺を叱るように背中を抓る。気分がいいときのクロの癖だ。
無理矢理に我慢させていた涙腺を解放する。あっという間にしとしとと頬が濡れ、冷えた風を受け止めて乾いていく。
来年もまたおいで、とでもいうように、天の川を大きく跨いで星がひとつ遠くの方へと滑り落ちた。