君の瞳に完敗



「どうしてわたしじゃだめなんですか」

 こんな惨めなセリフ、墓場まで持っていくつもりで、絶対に、死んでも言いたくなかったのに。だけど、ぶつけずにはいられなかった。古森さんを困らせるとしても、今までこらえていた涙が溢れてしまっても。

「別れようって言われたんだよね」

 事の発端は古森さんのこの一言だった。アルコールのせいで火照った頬、伏し目がちのまつ毛が隠しきれない色気を放っていた。古森さんの恋人はキレイな女性だった。写真でしか見たことはないけれど、パッと目を惹く艶やかさが魅力的で洗練された美しさを持っていた。軽い一言で言うなら、モテそう。三ヶ月前に急に現れて、古森さんの心をいとも簡単に奪っていった彼女が、正直憎かった。

「理由は聞いたんですか?」

 たった今さっきまで、ほろ酔いでご機嫌だったはずなのにその言葉ですっかり酔いが覚めてしまった。カランと溶けた氷の崩れる音でさらに空気が張り詰める。古森さんは重たい口を開いた。

「……そんなに俺のこと好きじゃなかったんだって」

 そう言って、テーブルにうなだれてしまった。古森さんがどんな反応を待っていたのか、予想していたのかはわたしには分からない。どうであれ、期待に応えられるほどの余裕はなかったし。それでも、かろうじて、は?とこぼしたわたしに古森さんは、だから、ともう一度同じ言葉を並べた。

「古森さんはそれ言われて何て返したんですか」

 ……むかつく。意味が分からない。それが率直な感想だった。だけど怒りはしぼむように消え去って、わたしの感情はすぐに悲しみに変わった。

「あぁそうなんだ、しか言えなかったんだよね」

 ぐるぐるといろんな感情がわたしの中で渦を巻く。湿っぽくて汚くて、到底誰にも打ち明けられそうにない。その歪んでて穏やかじゃない気持ちをすべてひっくるめて、精いっぱい自分なりの思いを伝えようとしたら冒頭の言葉になった。声色で気付いたのか、わたしの涙に、古森さんが慌てて顔を上げる。いつかこんな日が来るかもしれないと考えたことは過去に何度もあった。でも今日じゃなかったはずなのに。常連になってしまった雰囲気のない居酒屋。古森さんから昨夜「相談したいことがある」と連絡が来て、恋人のことだと知っていながら、万が一、いやもっと低い可能性でも、バカみたいに期待して浮き足立っていたわたしは本当に大バカだった。

「……古森さんのバカ」
「えぇ」

 顔を見ることはできなかったけど、古森さんが困っていることは声ですぐ分かった。

「なんでそんな最低な女のこと好きになるんですか。女見る目無さすぎ。せめて古森さんのことちゃんと大切にしてくれる人と付き合ってください」
「……ごめん」
「……そうじゃないと、わたしが古森さんのこと諦められないじゃないですか」

 涙ながらに思いを吐き出したら、古森さんから二度目の「ごめん」が聞こえた。口調のせいかもしれないけど別に怒っていないし、謝ってほしいわけじゃない。ただ悲しいだけ。古森さんがあたたかくてしあわせな恋愛をしてくれたら、柔く笑いながら惚気話でも聞かせてくれたら、こんなわたしでもきっと踏ん切りがついて、前を向けるはずなのに。

実紅、泣くなよ」

 どうにかしてよ、なんて無責任だと思う。わたしのことを好きじゃない古森さんに、わたしが望んでいいことなんて、ただのひとつもない。それをきちんと分かっているのに、もう一人のわたしが顔を覗かせる。

「……古森さん、キスしてください」

 報われないことを知っていても、わたしは自らこの糸を切ることができない。古森さんの中途半端なやさしさと、唇の心地よい温度を知ってしまった。重なった手の指先が絡むことがなくても、吐息まじりに名前を呼ばれたら、脳が麻痺して一切働かなくなる。かわいそうでも惨めでも、もうなんだって構わない。微かでも確かに存在したはずのプライド、あの最低な恋人のことだって全部捨てて忘れてしまえばいい。あなたのことをこんなに好きなのはわたしだけだって、どうしたら一番伝わるだろう。古森さんの困った顔がもっと見たくなって、彼女みたいな顔でキスの続きをねだった。