少しばかり酔っぱらってしまった。
いつもより頭がふわふわとしていて、言ってはいけないことや言えなかったことを声に出してしまいそうな夜。
彼が予約していたお店から駅までの街灯しかないような道程をとつとつと歩いていた。
信介くんがちょっとばかりこじゃれたお店に連れてくるから、わたしはなんだか笑ってしまって、信介くんに怒られたのも、凄く前のことのようだった。あまりアルコールを摂取しない彼に見つめられながら飲んだお酒は、正直いつもより少ないはずなのに酷く緊張してしまい、酔いが回るのが早かったのもたぶんそのせいだろう。腕時計をふと見つめるけれど、少しばかり暗くて手首を腕に近づける。お店を出てからずっと黙っていた信介くんが「時間?」と簡潔に言った。終電よりも少し余裕を持ってお店を出たけれど、それにしても時間の感覚が分からない。
「今、何時」
「終電何時やったっけ」
「えっとね、」
携帯を開いて時刻を告げると、信介くんが「了解」と呟いて自分の携帯を少しばかり操作した。
「どうしたの」
「アラームかけてん」
「なんで」
「まだちょっと余裕あるからゆっくり歩いてもええやろ」
「うん」
「ていうか、お前、走ったりとか出来そうにないしな」
街灯に照らされた横顔が余りにも大人で、こんな顔をしている男の人とどうしてわたしは歩いているのか、一瞬だけ分からなくなる。ちょっとだけ小ばかにするように笑っても、もう信介くんはすっかり大人みたいで、わたしだけ子どもみたいになってしまっていた。
彼のズボンのポケットに収められている携帯が何時に音を鳴らすのか聞いておけばよかった。なんとなく、カウントダウンされているような気がしてソワソワしてしまう。
意識しているつもりはなかったけれど、どうしても帰る、ということを頭の中で考えてしまって、言葉が出てこない。お店を出たときは道路側を歩いていたわたしが、いつの間にか内側を歩いていることだとか、ポケットに手を突っ込んで口を少し尖らせた彼の顔がこちらを向いてくれないことだとか、全部がどうしようもなくて。街灯に照らされた十センチの距離の影が、彼の携帯に刻まれているカウントダウンが、泣きそうなほどわたしをおかしくさせる。
終電の時間も先程調べたから分かっている、腕時計だって目を凝らせば時間が分かるのに、何もしたくない。駅になんてつかなくていい、でも、こうやって静かな信介くんの隣を歩くこともなぜか耐えることができなかった。
「……帰りたくない、ね」
「酔うてんのか、」
「ちょっと」
「なんで、……なんでそんなこと言うん、今」
ぽつり、と雨粒のような声を出した信介くんが足を止める。
シャッターの下りたお店の前、小さな黄色い屋根が見えて、パン屋さんだろうか、とちょっとだけ考えた。
じりじりと十センチより少し近い距離に、一歩こちらへ進んだ彼の顔は暗くて見ることができない。困惑しているわけでも、驚いているわけでもなさそうで、もしかしたら怒っているのかもしれなかった。こんな、急に、逃げ場のない場所で迷惑なせりふを言ったわたしに。
ちょっとでも近づけば分かる、お店で見たときとも帰り道の淡々とした瞳とも違う、鋭い瞳。わたしに向けられたことは人生でたぶん、一度たりともないその視線に「怒らせた」と直ぐに分かった。
じり、じり、シャッターにスカートの裾が触れたような錯覚を覚えるほど後ろに下がった頃、顔を上げれば信介くんがわたしを見つめている。彼がゆっくりとわたしに手を伸ばした瞬間に、馬鹿みたいに大きな音でアラームが鳴った。いつもこんな音で起きてるの?、とつい笑うと、信介くんは携帯のアラームを世界で一番忌々しそうな顔で切った後「うっさい」と吐き捨てた。
「あの、」
「七宝、お前、言うたよな、今、帰りたくないって」
「……はい」
「最初から帰したくなかったけど、もう帰す気も失せたわ」
汗ばんだ手がわたしの腕を掴んで、彼は唇の端を上げた。シニカルに笑うこともへたくそだったはずなのに、こんなにも上手に、彼はわたしに笑って見せる。
「タクシー」、と誰に向かってでもなく言う信介くんの声が聞こえたような、でもすぐに幻聴のように消えていく。
手首の少し上を、力の加減をきっと考えているのだろうな、というのが分かる力で彼が掴んだまま、唐突に歩き出した。最初は触れるような力だった彼の手が、わたしの骨をやわらかく確認するくらいの力に変わっていく。多分ではなく、絶対に駅とは違う一番近い大通りに向かって歩き出す姿を見て、わざと帰り道をこの道にしたのだろうかと気付いた。
本当に一、二本裏手を歩いていただけらしく、気が付いたらそれなりに眩い光の灯った大通りに出ていた。タクシーはびゅんびゅんと夜の街を駆け抜けていくけれど、信介くんはそれを幾つも見送ったあと、呼吸をひとつしたあとで、わたしを見た。
「一応、訊くけど。……ホンマに、ええの」
「……なんで、そんなこと訊くの」
腕を掴んだ信介くんの手が緩んで、彼の、ネオンに照らされてきらりと光る瞳がはっきりと潤んだ。
改めて、馬鹿みたいに、律儀に、恐々と、そんな質問をしてくる信介くんに、まるで自分が信用されていないような気がして、一時の迷いでこんなことを言う筈がないのにという気持ちで、わたしはあまりにもかわいくない言葉を返す。それでも絞り出した自分の声が震えていて、自分の目も喉も、からだ全てが怯えているのだと分かった。
ぬるい体温の彼の手のひらが腕から、滑るように、そして壊れ物を扱うかのように、わたしの手に触れた。
「ん、じゃ、行くか」
「……うん」
弱々しい彼の手を、同じくらいの力で握り返して、空車の赤いランプの灯ったタクシーを探す。直ぐに見つかるものだろうかという疑念を覆い隠す速度で、急にあったはずの体温がなくなっていた。片手を上げながら少し道路に足を踏み出した信介くんがタクシーを止め、こちらを見ることなく乗り込んでいく。道路に立ちすくんだままのわたしからは、行き先を伝える彼の声を聴くことができなかった。
タクシーに先に収まっている信介くん、行き先を伝えるその顔は、一生忘れない、忘れられないような顔で、わたしはつい呆けてしまう。けれど直ぐに鞄を持ち直して、急いでタクシーへ乗り込むと「バタン」とドアは勢いよく閉まって、タクシーは走り出した。
信介くんの決めた行き先、でも本当にわたしたちがこれから辿り着くところは未知の場所だと知っている。窓をぼんやりと見つめる信介くんの横顔を、シャッターで切り取れたらどんなにいいだろう、少し伏し目がちな瞳がすぐにこちらを向く。
「ビビんなって」
「……ビビってないし」
「そんならええけど」
聞き覚えのある清潔で明るい信介くんの笑った声が、いたずらっこな信介くんの瞳がわたしを捉える。
さっきよりずっとずっと離れて座っているはずなのに、心ばかりが温かくて仕方ない。
信介くん、と小さく名前を呼ぶと、「アホやなぁ、俺ら」と信介くんが自分の髪の毛をくしゃりとさせて、また、笑った。