一日が25時間あったら良いのに。そうしたら1時間コーヒーでも飲んでまったりできるのに。いつだったかそんなテレビCMが放送されていたような気がするけれど、一日は24時間くらいが丁度良い。1時間増えたところで趣味のゲームに没頭して夜更かしに拍車がかかるか、既に充足している睡眠時間が1時間増えて余計に惰眠を貪ってしまうだけの気がする。なんて怠惰だろうかと呆れるひとはいるだろうけれども、たかが1時間にそれほどの価値は見出せない。けれどもその1時間をぎゅっと濃縮させて、年末に15日程度の日数が増えて、365日と原則定められている一年が380日になるのなら、それはとても魅力的だ。彼女と愛し合うことを許される上限が増えるだなんて、なんと素晴らしいことだろうか。
「こちらでよろしかったですか?」
カウンター越しに対面している女性店員がぱかりと開いたリングケースのなかに収められている銀色の指輪に思わず感嘆の声が漏れた。手袋をした女性店員がリングケースから慎重に指輪を取り出して、細部まで見せるように水平にしたり傾けたりしてあらゆる角度からそれの具合を見せられて、また阿呆みたいな感嘆の声が漏れる。控えめに笑った女性店員がおれの手の平のうえにそれを預けた。彼女に誂えるために選んだそれは彼女によく似合うだろう。ニ連になったちいさなシトリンとガーネットが輝く。彼女の驚いた顔が瞼のうらに浮かんで、思わずだらしなく眉尻が下がった。
「お包みしますね」
「お願い、します。……あと、あの」
「はい」
「お姉さんは、どんなプロポーズ、を、されたら嬉しいですか」
女性店員は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それから拳で口元を覆ってくすりと笑った。なにかおかしなことを聞いたようだ。指輪を女性店員の手の平に預けながら目を伏せてやっぱりいいですとかなんとか口籠ったところで彼女はにこやかに微笑んで問いに答えた。
「どんなものでも、心が籠っていれば嬉しいと思いますよ」
無難な回答だ。夕食は何が良いかという問い掛けになんでもいいと答えるたびに決まって彼女はそれが一番困るのだと言うのだけれども、その言い分が漸く理解できたような気がした。けれどもその回答は本心だ。なんでもいい。女性店員に尋ねた内容も、彼女に尋ねられる夕食の献立も大差ない。なんでもいいのだ。
小さな紙袋を携えて店を出て、人で溢れている休日の街を抜けて、改札を通って丁度やってきた電車に滑りこんだ。彼女の住む街に自動的に運ばれていくからだの内側に目を向ければそこには彼女がいた。右手にぶら下げている紙袋に書かれた横文字に目ざとい彼女はきっとすぐに気が付くだろう。そして素知らぬふりをしながらもそわそわと落ち着かない様子で目配せをするだろう。他人に四方八方を囲まれている車内にひとりきりだというのに、彼女を思えばどうにもこうにもだらしなく眉尻が下がる。傍にいてもいなくても、どこにいてもなにをしていても彼女が愛しくて愛しくて仕方がないのだ。いきすぎた愛情だと呆れる友人もいるけれども、どうしようもない。寝ても醒めても、365日の生活は割となんでも彼女が中心だ。
特にこれといった契機があったわけではないし、彼女からそれなりのアプローチがあったわけでもない。先週会った友人にも、それならなぜ結婚をするのかとさんざん問い質されたけれども、彼を納得させる答えを明示することは終ぞできなかった。彼女を想うぶんの見返りがあれば良いと思っていたわけでもないし、まして法的な肩書を得て彼女の自由を制限したい思いもない。ひとりきりの生活だからこそ有していられる自由をもう少し満喫しても良いではないかと友人は言った。結婚は焦ってするものではないと誰もが言った。たしかにひとりの生活は気楽だ。帰宅も就寝も起床も思い通りの時間に成せば良いし、休日の予定も洗濯をする回数も掃除をするタイミングもなにもかも自分で決めてしまえば良い。けれども彼女と出会い、分かり合い、求め合い、そんな自由にはなんの価値もないと思いはじめたのだった。
一年は365日だ。それは一年のうちに彼女と愛し合うことを許された日数だ。少なくはないけれども、決して多いとも思えないその日々を、少しでも彼女と共有したかった。きらびやかなひかりもので気を引いて、曖昧な寄り添う理由に紙一枚で誓約を立てて、そんなことに一体何の意味があるのかと言われれば答える用意はないけれども、ありとあらゆる方法で彼女の心に触れるための手立てを探している。これもその一端だ。
とうに通い慣れた彼女が住んでいるアパートは、駅から少し離れた辺鄙な場所にある。小さな紙袋を携えたまま、駅の裏手にあるスーパーで彼女に頼まれた通り安売りのトイレットペーパーを買ってアパートに向かった。接触の悪いインターホンを強く押せば部屋のなかから彼女の返事が聞こえた。ああ、このひとのことが好きだ。扉越しに聞こえるたった一言にも心の奥底に沈殿した愛しさが燃えるものだから、おれが彼女に結婚を申し出ると決めたことをさんざん疑問視した友人に今更ながら返事がしたい。ああ、このひとのことが好きだと365日思いたいのだ。
「研磨、いらっしゃい」
「鈴子」
「はい?」
「おれと、結婚してくれない」
扉を開けた彼女の顔を見るや否や、電車のなかでさんざん考えていた口説き文句は全て体外へと散った。愛に飢えているようでみっともないかもしれないけれども、これがいま一番彼女に知っていてほしいことだった。
扉を開けるや否や向けられた突然の告白に彼女は驚いて言葉を失くしている。そして呆然とした顔をしたままおれが差しだしたものを両手で丁寧に受け取った。本日限定、8ロール440円のトイレットペーパーだ。
「あー……っと、……あ、りがとうございます……?」
「あ、間違えた」
慌てて彼女の腕からトイレットペーパーを取り上げて床に預け、紙袋のなかから取り出したリングケースを女性店員がしてみせたようにぱかりと開いた。ひかり輝くそれを前に彼女がそっと息をのむ。その細やかな息遣いを前に、ああ、このひとのことが好きだと思い知る。
365日、彼女に宛てるラブレターを綴りたい。誰の目にも触れることのない心の奥底でひっそりと筆を走らせる。
「ありがとう」
今にも泣き出しそうなひとみで、口角を緩やかに持ちあげた彼女が遠慮がちに左手を差し出す。
彼女に誂えるために選んだそれは彼女によく似合った。