孤爪さん、と思慮交じりの声がキッチンからおれを呼ぶ。いつもそうだ。彼女はひどく申し訳なさそうにおれの名前を呼ぶ。それはいつも、レストランであろうがファーストフード店の中であろうが道端であろうが彼女の部屋であろうが、そう、なのだ。伏目がちの目を閉じると、光に当たるたびに長い睫毛が薄く綺麗な影を作る。おれはそれを見つめて、息を吐く。不快なことじゃない。すべて不快なことじゃない。ただ、自分が彼女から目を背けてしまうだけなのだ。その理由は全て、とっくの昔から分かっている。
二つの安いマグカップは湯気を少しずつ薄くさせながらおれと彼女の目の前にある。中の液体は揺らぐことのない鏡のような美しさをひたすらに保っていて、お互いに口をつけようとしない。「ほうじ茶なんですけど、嫌い、ですか」と思慮がちな声が今度はおれの隣で聞こえた。そういうんじゃないけど、とつっけんどんな、きつい口調にならないように言ってマグカップの取っ手に指を滑らせた。思いのほかよりまだ熱を持っているそれに口を近づけて息を吹きかける。もし今眼鏡をかけていたら湯気でレンズが曇ってしまうだろうな、なんてことも考えた。それはなんともどうでもいい、余興でつなぎのような思考で、本当は隣で、猫舌なのか、ふうふうとお茶を冷ましながら飲む彼女のひとつひとつの呼吸を、タイミングを計ることで精一杯になっていた。
「なに、熱いの」
「まあ……熱いですね」
「ふうん」
ふうっ、と強くマグカップに息を吹きかけたり、てのひらに伝わる熱を逃がすようにマグカップを何度も持ち直す姿を見つめながら、すっかりと冷めて残りの減ったほうじ茶をおれは飲み干した。喉がざらざらとした感覚を持て余しながらまたひとつ呼吸をした。彼女と会話するとき、いつも、どうしても、嘲るような声が漏れてしまう。直そう直したいと試みてはいるのだけれど、いつもおれはやわらかい声を出すよりも前に、困ったように笑う彼女を見て、唇を不器用に歪める。それを見て、彼女はまた困ったような、でも満足そうな笑みを浮かべて、居心地が悪そうに座る位置をもぞもぞとさせるのだった。それはいつも変わらない、当たり前の繰り返しで、それがおれにとって良いものなのか悪いものなのかは全く以て理解する事ができなかった。にんげん、というものはきっと全てに麻痺していく。それはどんな感情であっても。
おれの感情もいつか薄れて、その頃には彼女ともっとうまく付き合えるのではないか、とたまに考える。そういう関係が正しいのか、今の関係が正しいのかおれには分からない。彼女が幸福であれと思っていることは事実であっても、自分も幸福になりたいという一丁前の考えくらいは持っているのだから。
ふたつの輪は交わる事を知らない。いや、もしかしたらとっくの昔から知っているのかもしれない。何年経っても変わらない呼び方(おれは彼女を「ねえ」だとか「ちょっと」だとか「あなた」と呼ぶことが多いし、いくら堅苦しいのが苦手だと言っても彼女はおれを断固として「孤爪さん」と呼ぶ)だとか、触れたいという、恋愛の象徴であるようなフラストレーションもいつまで経っても変わらない。変化がない。答えはないし、何かおれ達の輪はもうとっくに交わって、変わってしまったのではないのだろうか、とたまに考える。それならばそれでいい。そう諦める心と、本当にそれでいいのか、とおれに尋ねる心がいる。おれはどちらの心にも頭を振ってこう考えるのだ。
「あなたってなんも変わってないでしょ」
「……ああ、そうかも」
「それって良いことだと思うの」
「何事にも良いところと悪いところがあるんだから気にしないでいいんじゃないですか」
やっと冷ますことなくお茶を飲めるようになった彼女は温い息を吐きながら答えた。その返答を聞くたびにおれはそれだけでいいのだと思う。その一瞬が例えばおれの心を乱したとして、その一瞬がおれを落ち着かせたとして、その「一瞬」はその時だけは紛れもない真実なのだ。変わらない彼女と、きっと変わっていった、そして未だにゆるやかに変わるおれ。もしかしたら一秒ごとに考え方が変わっていっているのかもしれない。それでも二人の今に流れる時間は同じで、捉え方は違って、ただ相変わらず、おれは嘲るような声を吐き出して彼女は所在なさげに笑って、葛藤する心におれは被りを振る。
「鈴子」
おれの声に身体を跳ねて目を丸くさせた彼女を見て思う。メビウスの輪に表なんかない。おれの心が綺麗な一枚の輪になって、それを真っ直ぐに彼女に届けられるのはいつの日になるのだろうか、と。それが永遠にこない可能性が多大にあると知っていて、それで後悔するかもしれないことを知っていて、それでもおれは今この瞬間に、今この瞬間の彼女と呼吸することを選んで選んで生きている。そしてこれからもきっと生きていくだろう。
少し遅れて、ざらついた喉が咳を引き起こした。水を持ってくるといって立ち上がった彼女の背中に二文字の言葉を呟いてみたけれど、咳が止まらなくてそれはうまく言葉に声にならなかった。それでいいのだ、また言い聞かせて息を吐く。
いつもとは違う、冷えた空気が身体を包んで、遠くからまた彼女の足早な足音が近づいてきた。