A cat has nine lives



 ドリンクバーのお茶は氷を入れなくても薄っぺらくて、そのくせお腹がたぷたぷになっても飲んでしまう。
 このファミレスに入ってから、何杯目か分からないお茶を深夜の家族連れなんて一組もいない皮肉めいたテーブルのうちのひとつへ滑らせるように置く。肩肘をついて携帯を触っていた研磨がちらりとこちらを見てから何事もなかったかのように画面を暗くした。
 窓際のソファー席から見る外は真っ暗で、人通りが恐ろしいほどにない上に、全面が窓だからか冷たい空気がこちらにうっすらと忍び寄って離れようとしない。照明のせいか、外との対比のせいか、やけに真っ白に見える研磨の指先が、緩慢な仕草で頼りなげにくるくると揺れるストローの刺さったお茶を指す。
 先程まで携帯の画面をタップしていた指先と何かが違って、何がかは分からないけれど、直ぐに手折ることの出来そうなか細さ。薄くエナメルを塗りつけた自分の指先よりもがっしりとしている筈の指先に、どうしてこんな気持ちを持つのか分からない。

「飽きないの」
「飽きてる」
「飽きてんの」
「寧ろ、飲まなさすぎじゃない」
「そんなこと無いけど」

 まだ中身の半分ほど残った白いカップを一瞥した研磨が、首を傾げた。テーブルに立てられた季節のおすすめケーキのパネルを掴んで、ひとつひとつ眺めて、また戻す。
 特別話すこともなければ、特別離れることもなく、一時間前にお互いが収めた些かジャンクな、そして遅すぎる夕食から動けないでいる。沈黙が苦痛ではない関係というのは、とても珍しく、尊いものにされているけれど、例えばそこから動く勇気がないことも尊さのひとつなのだろうか。
 別にわざわざ言うほどのことではないのだけれども、研磨の声がわたしは結構好きで、声と同時に、合間に挟まれる沈黙の長さ、みたいなものも同じくらいに好ましいと思っている。
 そういえば、かつてこうやって深夜のファミレスに集っていたのはふたりだけでなかったのだけれど、どんどんと人が捕まらなくなっていったのだった。年を重ねて、ファミレスに行くよりも優先すべきこと、例えば仕事、睡眠、彼氏彼女、趣味、その他の遊興、選択肢は他にいくらでもある。別にわたしと研磨にそれらがない、というわけではないのだけれど、ふと連絡をして捕まるのは、研磨にとってはわたしで、わたしにとっては研磨だけになってしまったのだった。

「研磨さー、明日休み?」
「おれ?休み。鈴子は」
「全然、仕事」
「普通に?」
「普通に」
「寝た方がいいんじゃない」

 研磨は単純にそう言うから、多分、彼はここに来ることと同じくらい、家に帰ることを容易いことにしているのだろう。わたしは、ここに来ることが容易くても、戻ることはびっくりするくらい、自分でも困惑するくらい難しいのだ。理由はありふれたホームシックに似たもので、多分、一人の家に帰ることが、ただいまの声の反響の仕方とか、暗い部屋に自分で灯す電気のうすら寒さみたいなものを、身体全体が拒絶している。
 例えば、研磨が明日早いから、と今立ち上がったらわたしは彼を見送った後で、またこの店に入り直すだろう。鞄に忍ばせておいた文庫本をなるべく長く長く、引き延ばすように読んで、明るくなる少し前に何かを食べて、店を出て、家に帰ってお風呂に入って、少し早い空いた電車に乗って職場に向かう。想像するととてつもなく無茶なことで、でも実際は既に二度ほど行っていて、やってみるとそれほど逸脱しているようには思えなかった。逸脱、という言葉はどこからどこまでが当てはまるのか、自分では全く分からず、多分、これからも分からないと言いながらいつの間にか道を外れたり、戻ったりする。
 小さなラミネートの板に挟まったケーキの写真を眺めて、食べたくもないのに注文だけしたくなる。それは、研磨に朝まで付き合ってくれと頼むことよりずっと円満な感情の誤魔化し方だろう。

「そろそろ帰る」
「あー、うん」
「何?」
「わたし、ケーキ食べてから帰るわ」
「今から?太るよ」
「たまにだからいいの」

 研磨は、「ふうん」と間延びした、わたしの好きな声で言った後で、テーブルに自分が食べた分より少し多めの金額を置く。携帯を鞄に押し込んで、ニット帽を被って、「おやすみ」と、硬質的な声で言って、あっさりと店を出ていった。
 わたしは研磨が着る真っ黒の去年買ったらしい気に入りのジャケットの背中を、ふわふわ浮遊しているようで、でも全然ちゃんとしている彼の歩き方を、最後の最後まで見つめて、見えなくなってから、テーブルの上のお札を手に取った。
 携帯を開いて「お金多すぎる」とだけラインを送るものの、既読は付かず、わたしはボタンを押して、バターコーンを注文した。なんとなく、小さくて黄色くてコロコロしていて、可愛くて、甘くて儚く見えた。
 わたしは何時までここにいるのだろうか。
 飲んだ記憶がないはずなのにもう空になっているグラスを持ち上げると、また頼りなげにストローは揺れ、残されている研磨の使っていた白いカップの中は先程と寸分たがわない真っ黒の液体がそのまま残っていた。