Let the cat out of the bag



 呼ばれているような気がしたし、引き留められているような気がした、と車のキーをシリンダーに挿したまま、考えた。
 全てが自分の気のせいなのだろうと思う。
 実際、今夜彼女に声をかけたのはおれで、実際、おれは今引き留められることなく、車に乗っている。
 車の中でエンジンの音を聞きながら、鞄を助手席に置いた後、おれは車を動かすべきか、ひたすらに逡巡していた。頼りなくくるくると回るストロー、何度も彼女が飲み干す薄っぺらい色のお茶、丁寧に塗られたマニキュアと、せわしなく動く指先。研磨、と呼ぶ声だけが日増しに、固く、強張って、それでも、瞳だけはいつも透明度の高いまま、おれを映しているのだった。
 もっと時間があった頃、もっと日々に余裕があった頃、全ては過去で、これからも、今は過去に変わっていく。
 助手席に置いた鞄を掴んで、おれは車を降りた。はケーキを食べてはいないだろう、と確信に満ちた気持ちで駐車場を歩く。先程、ほんの数分前に出たはずの店に入りなおすと、時計の針は意外にも退店後から十五分も進んでいた。店員が来るよりも早く、先程まで座っていた席に向かうと、しゃっきりとした背筋で本を読むが見える。テーブルに置かれたバターコーンと、並々と注ぎなおされた薄っぺらい色のお茶と、赤いラインの新しいストロー。

「ケーキじゃないじゃん」

 声をかけると、いやに厚い文庫本を掴みなおしたが三回ほど瞬きをしてから、「研磨」と呟いた。
 彼女がおれの名前を呼ぶたびに、おれの目の前に小さく、確実な光が灯ることを彼女はたぶん知らない。その光に名前をつけていないことは、たぶん臆病さ故で、自分の身体にそんな類の臆病さがあることをおれは最近知った。
 いつもと同じ革製の栞を挟みなおした後で、またストローに口をつけ、一気に半分ほどお茶を飲み干すのを眺める。お茶が喉の奥を通過しきる前に、彼女は財布を取りだして、おれがテーブルに置いた千円札を全てテーブルに置きなおす。
 呼ばれた、引き留められた、というのは勘違いだと確信してしまいそうな勇敢な瞳がおれを見つめる。でも、おれを最初に見た声は、「研磨」と言ったその声も、三回の瞬きも、おれを呼んでいるようにしか見えなかった。おれは相当の自信家にでもなってしまったのだろうか。

「これ、多すぎ、返す」
「多くないでしょ、大体こんなもんだし」
「で、どうしたの」
、いつ帰るの」

 彼女の質問に質問で返した後で、「心配で来た」ことを言いそびれた、いや、言い逃したことに気付いた。寧ろ、はぐらかしてしまったのだろうか。自分でもよく分かっていないまま、おれの言葉にただ魂を抜かれたように言葉を失っている彼女を見つめた。
 薄く、寒い空気が指先にまとわりついてきて、逃げるように、下げられていなかったカップの中身に口をつける。彼女がお茶を飲むのは、沈黙を沈黙にしない代わりに、ただ口を塞ぐためだけにそうしていたのだろうか、と、ふと気が付いた。
 テーブルの上でやけにちかちかと、てらてらと光るコーンと、ひとさじだけ掬われた空白があり、ひどく長い沈黙の間中、は紡ぐべき言葉を失ったみたいに、ただテーブルを眺めている。雄弁な沈黙はおれの背中や肩をずっしりと重くさせて、徐々に眉間に皺の寄っていく彼女の顔を、テーブルの上で組まれた青白い指先と恐ろしいほど丁寧に塗られたマニキュアのつるつるとした質感みたいなものを、順番に拾う様に見つめた。

「研磨は帰らないの」
「おれは、」

 が帰ったら、と言いかけてそれが適切でないことと、適切でない言葉を使いたくなくなった自分に気づいた。
 いつもなら口を付けないお冷を呷るように飲み干した後で、本当の言葉を使う重みにまだ、心身が慣れていないのだと分かる。ずっとうまく使わないように避けて、離れていたたくさんの本質を含んだ言葉たちよりずっとストレートな言葉。
 研磨?、と、固まっているおれを引き戻す声は、いつもこの店で聞く声よりずっとか細く、子どものようだった。
 この店に来ることより、ここから帰ることがずっと難しいと知っていて、いつもおれはひとり車で帰っていた。もし、いや、確実にひとりで夜を明かしたことがあるのだろう、それを知っていて、今気づいたような顔でおれはここに座っている。やっと知ったわけではない筈なのに、初めて聞いたような気持ちで、か細いおれの名前を呼ぶ声を、重たげな瞼の動きを、見た。

「一緒に帰ろうか」
「……え?」
「明日仕事でしょ」
「送ってくれるってこと?」
「送るし、別に、何時まででも付き合うけど」
「どうしたの」
「そうしたいなと思って」

 彼女の瞳に薄く張った水の膜が、おれの言葉がきちんと届いたことを表していた。
 目玉がこぼれ落ちそうなほど大きく見開いて、薄い水の膜を乾かすようにしている彼女の手をおれはそっと触ってみる。手の甲がやけにしっとりとしていて、ふわりと柔らかく、でも少し押すだけで骨に当たった。自分の手とは違う、ふわふわとしているくせに、冷たくて、もろい、結晶みたいな手の甲だった。

「ねえ」
「……うん」
「今日だけじゃないよ、」

 力の抜けた手の甲に自分の手を重ねると、自分の手も大してあたたかいわけではないことに気付く。
 知らないふりをして、でも本当は気付いていたことばかりだった。
 手を握るだけで、やけに喉が渇いて、彼女のまばたきの数や、唇をそっと舐める仕草を確認している自分がいた。言葉が生み出されるまでの時間はお互いにどんどんと長くなっていて、でもその間の沈黙は言葉のために存在していた。

がおれといたいなら、全部、おれも」

 文章として成立しているか分からない、沈黙が無意味に感じるほどめちゃくちゃな言葉が口から滑り落ちていく。
 おれの言葉を聞いた彼女は、言葉を身体全体で取り込むみたいにゆっくりと一度瞬きをして、重ねていた手をそっと外した後、人差し指でそっと頬を拭った。
 まつげと、瞳がめいっぱいの明かりを取り込んだまま、「意味わかんない」と言った後で、氷が溶けてしまったせいで殆ど透明になったお茶に口を付ける。
 の濡れた目の端がきらりと光って、おれはそれを、とても綺麗だと思った。