折に触れて



 前髪を切った。
 そんなことで浮かれるのは女の仕事だと思ったけれど、些細な変化にも気づくような、細やかな男と過ごしていたらそんな感覚などとうの昔に麻痺してしまったのだ。

 人通りの多い駅の改札前で彼を待つ。ずいぶんと短くなった襟足に触れた。久々に髪を切りに行って、いい感じに、などと抽象的な注文をしたら自分でも驚くほどに短くされてしまった。彼はどんなに滑稽な髪型になっていようと、必ず朗らかに「似合ってる」と言う。大概研磨に甘すぎるのだ。そして研磨もまた、そうして甘やかされるのが嫌いではなかった。

「あれ、研磨どうした?髪切った?似合ってんなぁ」

 ピッ、とICカードを軽快に鳴らして、伊澄が改札を抜けてくる。グレイのスーツは先月新調したばかりのものだ。薄い水色のネクタイは出かける朝にはきっちり結ばれていた、でもきっと、彼は退社した途端にゆるめてしまう。少々だらしないサラリーマンが、己の脛をかじっている同居人の髪型を、いつも通りに褒めた。
 どんな場所でも必ず研磨を認めるのだから、この男の執念めいたものにはいつも驚かされる。髪を金色にしていたとき、遠目にもわかりやすい、なんて言っていた。ああ髪色のせいかと思いきや、新しく勤めるアルバイト先の規定で髪を黒く染め直してからも、伊澄はこうして、真っ先に研磨のところへ歩いてきた。まるで帰るべき巣があるかのよう。

「駅前のファミレス決まった」

 髪型について言及しないでいて、改札口からのぞく目と鼻の先、緑と赤の、ファミリーレストランの看板を指差す。

「ほお!よかったな、研磨、髪切った?」
「来週から週五で、いくから」
「研磨髪切った?」
「……切った、」
「似合ってんなあ!」

 伊澄がやはり朗らかに言う。重たげなビジネスバッグを持とうと、研磨が手を差し伸べる。伊澄は「いいよ別に」と笑い、

「研磨、手繋ご」
「ばかなの伊澄さん、ここどこだと思ってんの、街中でそんなばかなこと」
「ばかばか言うなってや」
「……ばか」

 研磨が僅かに語気を強めれば、伊澄は心底楽しげに声をあげた。
 この男と過ごしていると、元来女々しい性格が、ますます女々しくなるような気がする。どろどろに優しくしてくるものだから気が滅入る。一人で立つことができなくても「いいよ」と笑うような、伊澄はやはり、研磨に甘い。
 どうせ万人に同じようなことを言ってまわっているのだ、それでもあまりの鬱陶しさに耐えかね悪態をついたとき、声をあげて笑ってくるようなところ。「ごめんな」と急に下手にはまわらないところ。そこだけがきっと、八方美人と呼ばれてしまう他人にきれいな彼の、メッキがはがされたところだ。伊澄が研磨をからかうように笑ったとき、研磨はすこしだけ、たとえば紅茶に溶けた小さじ一杯の砂糖ほどだけ、彼の一切合財をもらってしまいたい、と思う。