寂しいなぁ。新幹線の待合室の椅子に腰かけた瞬間、翔陽が呟いた。
わたしは旅行鞄と、会社や友人や家族の為に買ったお土産の袋をがさがさと言わせながら、翔陽を見た。荷物のせいで首が半分向かなくて翔陽のつんとした鼻先だけが目に入る。
特に語尾の「なぁ」の声はまるで留守番を言い渡された犬みたいにしっとりとしていて、わたしは思わず周りを見る。誰も今の、とくべつな声を耳に入れていないだろうか、と。
翔陽はお土産を買っていない分ずっと少ない荷物を抑えながら、わたしの膝の上の一番大きい紙袋を持ってくれる。目に入る、やすりのかけられた短い爪と、ちゃんと男の人って感じのごつごつとした手。
「ありがとう」
「いっぱい買ったな」
「こっちに旅行って感じで来ることあんまりないから」
「そっか」
「翔陽は地元でしょ、元々」
「うん」
わたしの好きな明朗な微笑みを作ったまま、彼はきっちりと頷く。実際、彼に案内をして貰った旅行は彼氏と行くというのを差し引いても充実していたのだろう。彼氏と行くというのをうまく差し引くことはできないけれど。その結果がお土産の量にも比例していることに遅まきながら気づく。
翔陽がよく自転車で駆け抜けた坂だとか、通り過ぎたバス停だとか、かつてバレー部だった時のコーチが店長の個人商店だとか、今も行くスポーツ用品店だとか、すべてがもうひとつの日常なのだと驚いた。当たり前なのだけれど、わたしの暮らす地域で雨が降ったからといって、こちらでも雨が降っているとは限らない。そういう、遠い場所は物珍しくなにもかもが新鮮で、未だにエスカレーターも反対側に乗ってしまう。
別の場所でもわたしは毎日の食料品を買うように、デートの時のお洋服を選ぶように、出社をするように、毎日が繋がっている。十何年か前の翔陽は、こっち側の場所で、おんなじように、選んで迷って悩んで生活をしていたのだ。でも今日は同じ新幹線で同じ時期に桜が咲いて、雨が降ったり、止んだりする場所にいられる。
「全然寂しくないけどね」
「え?」
「さっき寂しいって言ってたけど」
「え!すげえ楽しかったじゃん、終わるの寂しいってならない?」
「なんで?翔陽だけ残るとかならまだしも一緒に帰るのに」
「そういうんじゃなくてさ。付き合ってから旅行とか初めてしただろ」
言いたいことはちゃんと通じているんだけれど、わたしは全く寂しくない、やっぱり。
小さい方の紙袋の中からわたしは自分用に買った個包装のチョコレート菓子の袋を手探りで開ける。指先ではじく様にして箱を開けて、一個ずつに分かれたチョコレート菓子のひとつを、翔陽に差し出した。まだ新幹線がやってくるまでほんの少し、寂しがったり、名残惜しがったり、チョコレートを二人で食べる時間はある。
翔陽が受け取ったあと、自分の分も取り出して、でもうまく開けられないことに気付く。ちょっとした声を出して笑った翔陽がわたしの分の袋を開けてくれて、二人揃って口にチョコレートを入れる。まだ買ったばかりだからかいやに硬くて、二人ともチョコレートが溶けるまで黙って口をもごもごとさせていた。
「あまいな」
「甘い?」
「うまいな」
「ああ、美味しいね」
「……すごいな」
「……うん?」
わたしより先にチョコレートを飲み込んだと翔陽が「寂しくなくなった」と言った。紙袋を持ち直したわたしがその寂しさの欠片を受け取ったような気がしたのは勘違いだろうか。
きちんと翔陽の横顔を見ると、彼は真っ直ぐに前を見ていて、わたしの荷物をちゃんと掴んでいてくれている。きれいな彼の手の、甲の柔らかい所に指先を伸ばしてそっと触れる。
「また行こうね」、新幹線の時間まで本当にあとちょっとだ。旅はまだ終わっていない、それでも。こちらの顔をまじまじと見つめた翔陽が、わたしの人差し指を手全体でぎゅっと掴んだまま「うん」と言った。
帰るのか、行くのか、戻るのか、進むのか、分からないけれど、翔陽と一緒にチョコレートかなにかをひとつ持てば多分、どこへでも行ける。
ぱっと離れた手の温度のせいでひやひやとした指先を何度も動かした後で、どちらからともなく立ち上がった。慣れた足取りで進んでいく翔陽の後ろを着いていきながら、待合室をそっと振り返ってみると、一瞬空席になった席には、またすぐ知らない誰かが腰かけていた。