烏はひかりの空に餓ゑ



 上機嫌で明日の準備をしている翔陽の背中に「楽しそうでいいねえ」というありきたりな嫌味を投げかけると、その言葉を嫌味だと知ってか知らずか翔陽が「愛子も一緒に来ればいいだろ」と言ってのける。
 正直翔陽がわたしを放ったらかしにして楽しそうにしているのが癪なのもあるけれど、外で肉を焼いて食べて何が楽しいのかわたしには一ミクロンも分からない。日に焼けたくないし、別に肉も野菜も好きじゃないし、どんなに凝った料理が出てこようとも空調の効いた店でゆっくりと食べるのが一番に決まっているとしか考えられない。これはもう、人間の持って生まれた根底の考えが違うのだろう、と最初から諦めきっている。
 だから、先程の嫌味は、バーベキューを楽しめる翔陽に投げつけているのが半分で、どうしても楽しめない自分に投げつけているのが半分なのだ。一緒に楽しめたら、一緒になんやかんやと話しながら準備ができたら、翔陽もきっともっと笑ってくれるはずなのに。

「ま、来ないよなあ」
「……うん、誘ってくれるのはありがたいけどね」
「珍しいな、そんなこと言うの」
「だって、楽しめる性分じゃないから、行くの申し訳ないんだもん」
「だったら、あんな嫌味言わなくていいだろ、自分に言ってることになるぞ」

 わざと自分に言ってみたの、と本当のことを告げたら翔陽はきっと悲しそうなような顔をするだろう。こういう面倒な性格をしている自覚があるから、MSBYのチームメンバーとはあまり進んで交流をしていない。烏野高校バレー部の同級生や先輩とも顔を合わせたことがあるけれど、やはり殆どが善性と陽の気の塊のような人たちばかりで、受け入れてはくれるのだろうが自分がその輪に入って馴染めるとはとても思えなかった。
 ソファーに腰かけて翔陽を見つめていたわたしのところまで、作業を一旦取りやめたらしい彼がこちらへやってくる。すとん、ときっちり寸分の狂いもなくわたしの隣に腰かけた翔陽が、あげていたわたしの髪をほどく。髪の毛が一気にほどけて、肩を撫でる大きな刷毛のように動いて鬱陶しい。縛っていたかたちでやけに律儀にくせのついた髪を隠すために彼の指先にかかっている黒のゴムに手を伸ばすけれど、届かない。

「返して、暑いし邪魔」
「もうちょいで取れるよ」
「普通に返してよ」

 手を伸ばしてそのまま身体を前に倒すけれど、体幹がきちんとしている彼のバランスは崩れず、不敵な笑みを浮かべたまま腕だけソファーからはみ出させる。むしろ翔陽の反対側の手がいつの間にかわたしの腰に回っており、勝手にバランスを崩したわたしは彼の胸元に顔をぶつけていた。バレー選手の中でも小柄な方で、筋骨隆々といったわけではない彼の身体とはいえきちんと鍛えた成人男性で、堅い身体に思い切り顔をぶつけてしまえば痛いという感想しか湧くことはない。
 高くもない鼻をしたたかに打ったわたしは痛みを訴える鼻を抑えながら、抗議の意味を含んだ視線を、斜め上、翔陽の首筋に向けた。「今のは痛かったな」と、まるで子どもをあやすように翔陽が、わたしのゴムを手首に通したままその手で頭をゆったりと撫でてくる。
 ぶつけた鼻をごまかすように耳と頬を彼の胸に当てていたせいで、余計にあやされている子どものような雰囲気で。髪の毛のくせを指先で弄びだした翔陽の胸に唇を押し付けたわたしが「なんなの」と彼の心臓に向かって言ってみる。

「明日行かないなら、今日は愛子と一緒にいたほうがよくない?」
「急にどうしたの」
「なんとなく」
「なんとなく?」
「バーベキューはチームの人たちとできるから、愛子としかできないことしようと思って」

 ぎゅうっと、容赦なく翔陽がわたしを抱きしめて、首筋に顔をうずめた。別に緊張するわけでも、戸惑うわけでもなく、ただ当たり前のような所作でそんなことをしてくる翔陽がちょっとだけむかつく。律儀にわたしばかり緊張して、ドキドキと心臓が動いているのもきっと分かり切っているから。
 それでも彼も、そしてもちろんわたしも何を言うこともなく、ただ首筋から流れてくる直接的な体温に居心地の悪さすら覚えてしまう。まるで何かの決め技のように動くことができないのは、彼の手の位置のせいか、わたしがただ愚かなだけなのか。
 ぬるい、あたたかい、あつい、と徐々に変化していくお互いの体温を感じていると、翔陽がやっと口を開いてくれる。

「カップルぽい感じしない?」
「……知らないよ」
「なんで、めちゃくちゃドキドキいってるぞ」
「誰にされてもドキドキするかもしれないじゃん」
「……へえ、知らなかった」

 一気に声の温度を下げた翔陽がにっこりと微笑みを張り付けたまま、わたしの身体をひょいと持ち上げた。あまりにも軽々と持ち上げられたわたしは、よくある少女漫画で男の子が女の子を押し倒しているような体勢になっていて、ただそれは男女が逆転していて。真下にある翔陽の顔は、いつもと変わらない端正なもので、ただ今は無表情で唇の片方が上がっているだけ。離されている彼の両手がわたしの頬を包んで、両方の親指が同時にわたしの頬をゆっくりとなぞる。下を向いているわたしの髪の毛がわたしの視界を邪魔して、きっと彼も同じことを思ったのか、自分の手首につけていたゴムをやっとわたしに返してくれた。手のひらに握らされたゴムを、無理な体勢で四苦八苦しながらひとつに結びなおすと、待っていたと言わんばかりに彼がわたしの身体を引く。今度は殆どお互いに起き上がって正面を向くような形で、また翔陽が、何かの点検作業をするかの如く、先程とまったく同じように頬に触れる。心臓が壊れそうになって、自分が売った喧嘩をすぐに止めたくなるけれど、苦しい心臓が言葉を出すことすら難しいと訴えていた。

「他の奴でも、同じ顔するんだ?」
「……するわけない」
「じゃあさっきなんであんなこと言ったの」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃないし、俺だって傷つくときは傷つくっていう」
「やっぱり謝るべきことじゃん」
「んー、違くてさあ。まあ、俺も必死だから、あんまり意地悪言われると困るって話」

 わたしをやわらかく、包み込むように抱きしめた翔陽がそう、耳元で囁く。ごめんね、といつの間にか自分が発していた言葉にも、翔陽は「もういいって」と言ってまた頭を撫でる。
 これはカップルなのか、親子なのか、なんて考えていると、翔陽はエスパーなのか、わたしの両肩を掴んで、澄んだ目でこちらを見て、唇を緩めた。微笑、という言葉には美しさが含まれているとなんとなく思っているけれど、そのイメージにぴったりの美しい、少しの笑み。

「浮気したらダメだからな」
「なにそれ」
「俺はしないし」
「わたしもしないし」
「うん、ならいいけど」

 こんなジェットコースターのような愛情表現をされて、わたしが誰かに目移りすることを考えるのが翔陽らしいな、と思う。自分の魅力、みたいなものが分かっているように、うまく使いこなして生きているように見えて、肝心の対わたしにしてみたら何も分かっていないのだから。
 翔陽からわざわざ自分で離れるようなことするわけないじゃん、ときちんと言いたくなったけれど、言うほど薄くなる気がして、言葉をそっと飲み込んだ。ただ、代わりに彼の瞳を見つめ返すと、飽きることのない色の瞳がきちんとわたしを映して、堪えきれないと言わんばかりに噴き出した。

「バーベキュー、少人数ならいいんだけど」
「無理しなくていーって」
「……そう?」
「よく考えたら、別に無理に愛子を連れ出す必要もないよなあ」

 勝手にわたしの身体を持ち上げたりなんなりしたくせに、「紐見えてる」と宣言してから彼が下着の紐に指を通し、ぱちんと音を立てる。痛くはないけれど、身体を軽く彼から逸らせたわたしは服の両肩の部分を手でつかんで服の位置を直した後で、上から肩ひもを確認した。
 「俺よりぼーっとしてるかもな」、絶対そんなことない筈だけれど、彼が意見を翻した理由の一端が見えた気がして、わたしは口を噤む。
 そろそろ重い、とか言いそうだななんて判断を下してわたしが彼の上から降りようとすると、「まだダメ」と腕を引かれて、また鼻を打った。しょうよう、という呪詛が甘ったるく響く部屋の中で、彼も「またやったな」と自分に言っているのかわたしに言っているのかわからない声で笑いながら、強くわたしを抱きしめてくる。