foo dog



1



 三年勤めた会社を辞めた。アラサーを目前にしてジョブチェンジを図るなんて勇者だね、と彼女は呆れたように言ったけれども、止めておいたらだとかもうちょっと頑張ってみればだとかそういう類の言葉を一切口にしなかった。彼女の潔さというか、勇ましさというか、そういうものものに背を押されるようにして部長に辞表を叩き付けた。実際はお布施を渡すような手付きでそっと手渡したに過ぎないのだけれど、心持ちだけは大胆に。
 夜明けの海は寂しかった。たいらな砂浜と穏やかな波と次第に白んでゆく空だけが広がって、滅亡を迎えた世界に取り残された気になるのだけれどもたまに傍の国道を走る車の音が詩人を気取りたがる傷心を現実へと引き戻す。
 上京して一人暮らし中の家から10分も歩けば辿り着くこの砂浜は、夏こそ人でごった返すけれどもシーズンオフともなれば訪れるのは犬の散歩をする地元民くらいのものでなかなかに快適だ。夜明け前ともなれば一入で、どうにも寝苦しい夜にを家にひとり残してここまでやってきたときから今まで俺の視界にはずっと同じ光景が広がっている。砂浜と、海と、空。ありきたりな絵画のようでとてもきれいだ。潮風が薄いTシャツの裾から入り込んでここのところ焦ってばかりいる心臓の表面を柔らかに撫でる。なんとなくうたいたい気分になって小さな声で歌をうたった。口をついて出た歌の曲名は思い出せなかった。たぶん、中学校の音楽の教科書に載っていた歌だ。
 かつんかつんと軽やかな足音が聞こえたのはあたりがすっかり明るくなった頃だった。傍の国道を走る車の音くらいしか雑音のなかった世界に突如聞こえたその音に耳を済ませていると足音は背中のすぐうしろで止み、次いでの声がした。

「貴大、納豆買ってきたよ」

 昔から彼女の言動は突拍子のないものが多い。


2



 国道の歩道から枝分かれして伸びる石階段の中央あたりに並んで座る一組の男女が、揃ってパック入りの納豆をかきまぜているというのはなかなかにシュールな光景だ。に黙って家を出たというのにまるで予めここで落ち合う約束をしていたかのような風情で彼女は黙って納豆をかきまぜている。あたりにはすっかり納豆独特のにおいが漂っていて気分が悪い。昔からどうにも納豆は苦手だ。そして彼女もまた出会った頃に納豆は好まないと言っていたような気がする。まずにおいがいやで、味も意味が分からない、と。

「なあ、なんで納豆なの。好きになった?」
「んー……もしかしたらって思ったけどやっぱりそんなことない。においからしてイヤ」

 そんなことを言いながらもは手を休めることなく納豆をかきまぜ続けている。

「これ、もういいかなあ」
「知らね。俺も普段食わねえもん」
「もういっか」
「さあ」

 割り箸を器用に操り納豆を一粒捕まえた彼女はおもむろにそれを口へと運ぶ。が微かに眉間に皺を寄せるものだから彼女が次に言うことが容易に想像できてしまった。

「おいしくなーい……」

 予想通りの物言いに声を漏らして笑うと貴大も食べてみてと催促された。はいはい、と返事をしてすくいあげたひとかたまりを口のなかに放り込むけれども思うことはと同じだ。おいしくない。不快感が顔に表われてしまったのか、全部食べるんだよ、とが俺に念を押す。言われなくとも食べ物を粗末にする罰当たりにはなれない。

「ここにいるってよく分かったな」
「だってこの辺なにもないでしょ。散歩の行き先なんてここか、この先のお寺さんくらいだもん」
「はは、確かに」

 大学を卒業して就職して、二年が経った頃に転勤を命じられ、家を出てはじめて一人暮らしをはじめたのがこの街だった。そしてに出会い、一年後に一緒に暮らすようになった。幼い頃から海のそばに住みたかったのだと言う彼女はなにもないこの街をとても気に入っているらしい。
 なにもない、とは言え24時間営業のコンビニくらいはある。納豆を好まない俺と納豆を好まないの暮らす家の冷蔵庫に納豆の備えがあるわけはなく、彼女は恐らく家からここまでの間にあるコンビニで納豆を買ったのだろう。どうせ買ってくるのなら冷えたビールにしてくれれば良いものを、と思いながら俺はもくもくと納豆を食べる。もまたもくもくと納豆を食べていた。

「なあ、なんで納豆なわけ」

 食べても食べてもなかなか減らない納豆を見下ろしながら尋ねると、私も貴大も納豆が嫌いだから、とは当然のように答えた。

「嫌いなものを胃にいれると、別の生き物になったような気がしない?」
「…………どーだろ」
「あ、しない?」
「んー……」

 を真似ておおきく口を開けて思い切り納豆を食べてみたけれども、不快感が募るばかりで別の生き物になった気はまるでしない。ふとのからだをまじまじと眺めてみたけれども彼女もまた俺の知っている彼女と変わりなかった。はたまた、からだの内部から彼女は別の生き物になろうとしているのか。それならこの目で捉えられるわけがない。

「これはジンクスみたいなもので」

 割り箸の先を食みながらが言った。

「新しい自分になりたいときは嫌いなものを食べるの」

 その一瞬で、体内の不快感は潮風になって心臓の表面を柔らかに撫でた。
 耐えがたいものがあって、許容しがたいことがあって、忍耐力を使い果たしてすべてを放り投げた。過ぎ去った分岐点の選択の善し悪しを未だ胸のうちで審議して、ひとりで焦って、寝苦しい夜に彼女を残して街のはしっこまで逃げて、一体何をしているのだろうか。
 俺が二の足を踏んでいる間にもはみるみる進化していく。なにもない街の隅を世界のはしっこに見立ててまったく俺は孤独だと傷心に浸りたがる俺をわざわざ探して、俺の隣で。

「わたしもジョブチェンジしようかなあ」

 納豆をぐるぐるとかき回しながらが零した。生活のなかで滅多に文句など零さない彼女だけれども、やはりその胸のうちにはそれなりの不満があるらしい。
 俺はの不満を聞き流しながらもくもくと納豆を食べる。慣れないものを胃のなかに流し込む感覚は新鮮で、これが彼女の言うところの進化の正体だと言うのならなんてお粗末な進化論だと呆れてしまうけれども、平成を生きる俺たちにはこのくらいの進歩で十分だ。胸のうちで禅問答を繰り返しながら、正しいことを探しまわってのたうちまわって、時には手に入れたものをすべて捨ててしまって、白んだ空に溜息をつく。いつまでたっても自分の正しいかたちを見つけられずに、そうして模索しながら生きて行くしかない俺をは何度だって見つけるのだろう。手には納豆の入ったコンビニのビニール袋をぶら下げて。
 だから、何にだってなれる確信が俺にはある。

「もう少ししたら、いやでもジョブチェンジすることになるんじゃない」
「え、なにに?」
「俺のお嫁さん」

 左手をついて距離を縮めて触れるだけのキスをすれば、心底いやそうな顔をしたに納豆くさいキスはいやだと窘められた。一世一代のプロポーズをしたというのになんて面白みのない反応だろうかと少しかなしくなってしまうけれども、顔を背けた彼女の耳朶が桃色に染まって見えたものだから返事としては十分だった。
 が買ってきた納豆は3パックがひとつに包装されているもので、彼女の左に控えているコンビニのビニール袋のなかにはまだひとつ納豆のパックが残されている。どうせならこの胃を納豆で目一杯にしてやろうではないかと思い立って申し出れば、一瞬目を丸くした彼女は「白いごはんが欲しいよね」と困ったように笑った。