デルモ



 正直モデル業にはうんざりしていた。
 育ち盛りだっていうのに所属事務所は自己管理にうるさくて、体重が増えても減っても大袈裟なマネージャーは真っ青になる。好奇心旺盛なお年頃だから一日24時間では足りなくて、否が応にも削られる時間を考慮しないでしたいように振る舞えばついつい夜更かしが続いて慢性的な睡眠不足。目の下にくまができればいつものメイクさんがけらけら笑ってコンシーラーを塗りたくるけれど、そのたびに二十代前半のいたいけな心臓にわさびだとかからしだとか、そういう明らかに不適切なものを塗りたくられているような気分になる。世代交代の波に乗って先輩たちを押し退けて、俺自身を蹴落とそうとする波は蹴散らして、クライアントに媚びを売って、イメージ戦略の餌食になって、そのうち感覚は麻痺して生活は壊死する。へらへらとカメラに向かって笑うだけで楽に大金を稼いで良い御身分だと顔見知り程度の知り合いたちは口々に言うけれど、これでも死んだ気になって働く労働者の一員だ。カメラのフラッシュも黄色い声援も無害じゃない。むしろ、あんなものはただの悪意のかたまりだ。

「灰羽くんどこ行くの」
「ちょっと次のシーンまで休憩。まだ時間あるでしょ」
「あるけど……一緒に行くよ」
「いーですよ、そんなの」

 マネージャーの声を振りきってすたすたと早足でその場を離れれば漸くひとりになれた。仕事のために外に出るとマネージャーがどこにでも付いてこようとするものだからうんざりしてしまう。彼にしてみればそれが仕事なのだから仕方がないことかもしれないけれど、他人のプライベートの侵害が仕事だなんてなんだかせつない。
 だだっ広い公園は平日だというのににぎやかだった。真夏の晴れ日だというのに背の高い緑に覆われた散歩道の木陰が涼しくて、都会の真ん中にもまだこんな場所が残っていたのだと思えた。ジョギングをしているひとに何度も追い抜かされながらのろのろと歩いていると、背の高いフェンス越しにビーチ用のバレーコートが見えた。大声を張り上げてボールを追っている同年代の群れを見ていると高校時代バレーに心血を注いでいた頃の自分が懐かしくなって、仲間に入れてもらおうと散歩道を外れて傍まで寄ったけれども、洋服が汚れてしまうことに気が付いて足を止めた。いまは撮影中だ。袖に少しの土埃が付着しただけでマネージャーの泣き顔が目に浮かぶようだった。

「つまんね」
「あっ」

 ぽつりと呟いた直後、女の子の高い声が響いて思わず大袈裟に肩が震えた。まずい、聞こえたかもしれない。おそるおそる声のした方向へと顔を向けると大学生くらいの女の子がぽかんと口を開けて俺を見ていた。どうやら俺のささやかな嘆きは聞こえていなかったらしい。女の子は頬を真っ赤にして「リエーフ!」と叫んで握手を求めて俺に両手を差し出した。炎天下を歩いてきたらしい女の子の手は汗ばんで生温かかった。

「撮影ですか」
「うん、そう。もう行くな」
「がっ、がんばってください!」
「ウン、ありがと」

 営業用の笑顔を貼りつけて会話をしても女の子は疑問視しない。健気に頬を染める女の子の肩越しに妙に冷めた目をした自分が鏡を持って立っていて、おまえ、きもちわるいよ、なんて蔑まれている気になって逃げるように背を向けた。たぶん、俺は胸のうちにたくさんの仮面を持っていて、朝が来るとクローゼットを開いてその日一日の洋服を選びとるような自然な動作でその場面に相応しい仮面を選びとって顔面に貼りつけている。ひとくくりに笑顔といってもあざとさを覆い隠すための笑顔とか、なだらかに拒否を示すための笑顔とか、数種類を取りそろえたコレクションは優秀で、いま貼りつけていたのは「ファンの女の子を大事にするモデルさんの笑顔」だ。くだらないと謗られようとコレクションの充実と使い分けのうまさが生活の質を決める。必要なスキルだと思えば悪癖もすぐに身に付いた。
 どこにいっても誰かが必ず灰羽リエーフを知っている。十代の頃はそういう生活に憧れて、それが現実になれば酔いしれもしたけれど今やほとんどストレスだ。口の端から零れる本心も下手をすれば敵になる。いつどこで悪意に足元を掬われるか分かったものではないからいつだって気が抜けなくて、たまの休みに連絡をとる友人はいるけれど、高校時代の先輩や同輩たちほどに手放しで心を許せるひとはない。
 撮影だなんだって大勢のひとに囲まれて、それでも俺はフラッシュのまんなかでずっとひとりだ。
 俺は贅沢かもしれない。けれど、この頃ではテレビのなかや高速道路から見えるビル看板に自分とそっくりな男の顔を見つけるたびに嫌悪にも似た違和感を覚えて目を逸らしてしまう。皮膚一枚で隔てられた内側と外側の差分を思えば少なからず吐気がした。

「灰羽くん」

 名前を呼ばれて振り向けば、そこにはオーソドックスなツーピースのセーラー服を着た女の子が立っていた。女の子が大人びて見えるのは内面のせいではなくて、実際彼女はとうに成人しているからだ。彼女は今日の撮影で俺の相手役を演じている女優で、聞いた話によると今年短大を卒業したばかりだと言う。午前中は俺も彼女に合わせた学生服を着ていた。周囲の評価に反して自分では気恥かしい違和感が最後まで拭えなかったけれども未だ幼さの残る彼女にはいつか着ていたであろうセーラー服は彼女によく似合っている。切り揃えられた前髪も聡明な額も紺色のスカートから覗く膝小僧も、なにもかもが完璧に可憐な女子高校生を演出していた。

「灰羽くんも散歩?いいよねこの公園。広くて」
「うん。都会なのにな」
「そうなの。さっきね、へんな自転車みた。二人でのるの。並んで。ちゃんとペダルもふたつあるの。オレンジ色で、すっごくおおきいの」
「へえ」
「ね。一緒に乗らない?」
「怒られるよ」
「あ、そっか」

 長い髪を撫でつけて笑う彼女は可憐だ。はじめて会ったとき、とても無遠慮に笑うひとだと思った。常に悪意に付け狙われるこの世界で、彼女もまた時と場合によって感情を使い分けるだけの周到さを持ち合わせているのだろうかと邪推すればその隠蔽の手口に恐れすら抱いたけれども、猜疑するには彼女は可憐すぎた。

「あーあ、ゲーノージンってつまらないなあ」

 衝撃を受けた。
 俺がほろりと零しては飲み込もうと息を飲む本心を容易にするりと舌にのせてしまう女の子の無造作に。
 彼女は所謂売れっ子で、テレビのCMだとか街中のポスターだとか、ありとあらゆるところに彼女の痕跡が溢れているから普通に暮らしているだけで彼女の顔を見ない日はない。そんな彼女のくちから飛び出した予想だにしないワードに全神経が持っていかれた。芸能人はつまらない。それならどうして彼女は自分をすり減らしてまでこの世界に生きるのか。カメラのフラッシュに焼けただれていく精神を抱いて。

「つまらない?」
「あ、こういうのあんま言ったらだめなんだよね」
「じゃあ、なんで続けてんの」

 彼女はおおきな目をまるくして、それからおかしな冗談を聞いたような顔をして笑った。
 彼女はひどく無遠慮に笑う。一切の悪意を蹴散らすように。

「わたしは一生これで食べていきたいの。ちょっと不自由が多いくらいじゃ辞めたくないよ」

 セーラー服が暑いのか、両手で僅かに持ち上げたスカートをばさばさとはためかせながら彼女が言った。紺色のスカートから伸びる白い足に木陰が揺れて光った。大学を出たばかりの女の子のせりふとしてはいくらか現実味を削いではいたけれども、彼女の生きてきた世界を思えばへんに納得してしまった。繊細なまつげにふちどられた眼差しがいっそ卑劣なほど、きれいだった。

「灰羽くんは、お仕事あんまり楽しそうじゃないね」
「えっ」
「わたし結構長いから、わかるんだよね。そういうの」

 誰にも打ち明けたことのない本心を容易く見抜かれ、動揺を隠しきれずに慌ててコレクションをひっかきまわしたけれども丁度いいものを見つけることはできなかった。へらりと曖昧に笑えば彼女の肩越しにへんなかたちをした自転車が見えた。それはオレンジ色のおおきな自転車で、女の子が二人並んでペダルをこいでいた。

「なあ、さっき言ってたのってもしかしてあれ?」
「ん?あ、そう! あれ。おもしろそうじゃない?」
「…………あとで乗ろうか」
「えっ、ほんと! やっぱり見たら乗りたいよねー」
「時間があったらな!撮影が先」
「もちろん」

 無遠慮に笑う彼女を見ていると懐古的な気分になって、いろいろなことを考えてしまう。俺に握手を求めた女の子の汗ばんだ手の平に悪意は潜んでいたか。いたいけな心臓に塗りたくられているのはわさびやからしや、そういう不適切なものだけだったろうか。例えば、マーマレードに似た甘やかな感傷にそっと胸の内側を撫でられた日もあった。そういうものものを全てなかったことにして、うんざりだなんて惜しいことをしているのではないか。フラッシュのひかりも握手の感覚も、単純な行為を複雑に見てしまうのは歳月が経つにつれ複雑にねじ曲がってしまった自分自身のこころのせい、かもしれない。

「灰羽くんはなんでモデルさんしてるの?」

 無遠慮に笑う彼女はその口吻もまた無遠慮だ。

「なんでって、それ、は」

 正直モデル業にはうんざりしている。
 でも、まだ、辞めたくない。