ここ数日、本当に嵐のように忙しかった。フランスに本店を持つ日本出身のショコラティエとコラボした仙台限定商品のポップアップショップ、とかいうやつになぜか広報部のわたしが駆り出されたのだ。パリで活躍するショコラティエならばサロン・デュ・ショコラが本命だろうになぜ東京でも京都でもなく宮城なのだろうかと担当者に訊いてみれば、どうやらあのウシワカの卒業校でもある白鳥沢学園高校の出身らしい。本来企画部の管轄だからわたし以外は全員別部署の人員だったけれど、あらかしやS-style、つまるところテレビや雑誌の取材もあるからとかなんとか言いくるめられてそちらの対応に追われ、本当に嵐のようだった。けれどショーケースを眺める女の子たちの瞳は、恋をしているのだと思わせるきらめきを秘めていて、例年会社で気を遣うだけな面倒なイベントだと思っていたわたしにとっては新鮮だった。「どう贔屓目に言っても愛想ねえお前がバレンタインの催事スタッフって世も末だな」と、ショップが始まる前日にいつもの居酒屋で、二口が冗談まがいに言った声が今も耳に残っている。ええ、わたしもそう思いますとも。
「お疲れ様でしたあ!」
既にお客さんのいなくなった催事場で、今回のイベントを仕切っていた企画部のチーフが大きな声をあげた。コラボ企画の目玉商品は無事完売し、中には感極まって泣いてるスタッフなんかもいて、仕事だからと渋々手伝いはじめたわたしですらなかなかに感慨深いものがあった。
「この後企画部で打ち上げやるんですけど、どうですか?」
「え、わたしはいいよ。ほんと何もしてないし」
「え~、一緒に飲みたいっすよー」
「バカ、予定あるに決まってんでしょ」
「え?あ、いや、」
今日バレンタインですもんね、と、確か入社二年目の女の子が綺麗にカールした睫毛をぱちぱちさせながらわたしを見た。休憩中、少しだけ躊躇いながら買ったシンプルなパッケージのチョコレートが、鞄の中で揺れている。今日このあと人に会う予定なんてない。誰かに渡すつもりもない。けれどその相手だけはなんとなく頭に浮かんでいる、なんて少々虚しすぎるかもしれない。
しばらく開いていなかった携帯のディスプレイを見ると「21時にいつものとこで」というメッセージが入っていて、そのたった一文は、わたしの心をしっかりとざわつかせる。慌てて今の時間を確認すると、21時を5分ほど過ぎたところを示していた。
「おぉ、お疲れーい」
「……おつかれ」
「うわっ、テンション低」
「いきなりなに、今日って約束してたっけ」
「別にしてないけど、なに?予定あんの?」
「……ないですけどね」
「だろうな」
既に一人で飲みはじめていたらしい二口が、ビールでいい?とわたしに尋ねる。行きつけの大衆居酒屋はバレンタインなど関係なくガヤガヤと騒がしい。お通しです、と運ばれてきた枝豆を口の中で転がして、ふと二口が座っている椅子の横を見ると、大きめの紙袋がひとつ。
「なにそれ、もしかしてチョコ?」
「ああ、うん。事務の子とか、まあいろいろ」
「はあ……おモテになって大変宜しいですね」
はいはい、と受け流すように笑って、それから「お前はなんかないの?」と、冗談なのか本気なのか分かりにくいトーンで言った。真っ黒い目がゆっくりとわたしを捉えていく。いつものわたしなら「あるわけないでしょ、」なんて答えただろうに、ショップに来ていた女の子たちの潤んだ瞳を思い出すと、そんな嘘を言うのは憚られた。
「ふは、冗談だよ、冗談」
沈黙を破るように、二口が言う。鞄の中を辿ると、とん、と指先が硬い箱にぶつかった。バレンタインなんてきっと、なくてもいい。けど、勇気を出すチャンスにはちょうどいい。
「……どうぞ、」
「え、なに?」
「これ、どうぞ!」
「おぉ、」
引っ張り出した箱を目の前の胸元に押し付ける。二口は呆気にとられたような顔でそれを受け取って、これさっき買ったろ、と伏し目がちに笑った。それから、チョコレートがまとめられた大きめの紙袋をするりと抜けて、去年くらいから使っているお気に入りらしい鞄に丁寧にしまい込んだ。
「……ん、ありがと」
「あ、うん、どういたしまして」
「ふっ、なんか様子がおかしいと思ったらこれかよ」
「べつに、余ってたやつだから……ちょっと、笑わないでよ」
「お前、可愛いことするよなあ」
堪え切れないといった感じで肩をくつくつと震わせて、徐々に頬が緩んでいく。わたしはといえば、顔の熱がじわじわとあがっていくのを感じながら、ぐっと唇を閉じた。
「これ、本命?」
「…………だったら?」
「ふは、それずりーよ」
小さな声でうるさいと呟くと、彼は満足そうに頷いて、わたしの頭をくしゃりと撫でた。きっと今わたしはあの女の子たちと同じように、心の底から、恋をしているのだろう。