君に触れたつま先を



 その男に会ったのはこれでたぶん三回目だったと思う。

 一回目は、最近新しくオープンしたオシャレな商業施設のオシャレな飲食店で友達と食事をしていたときだった。絶対に交わることのない人種だ、と一目見た瞬間にそう思った。クラスの端っこで数人とひっそり輪になってボソボソと話しているようなのがわたしだとしたら、わたしたちの席の隣に案内されてきたその人はクラスの中心で男女共から慕われながら大きな声で笑っているような人だった。自動販売機よりも大きそうな身長の高さで威圧感もあって、一言で言うなら、チャラい。もう一言付け加えるとすれば、こわい。けれど、わたしの向かいで一緒に食事をしていた友達はその人をチラリと見ると軽く目を見開いて「二口じゃん」と声に出した。

「えっ、……福田?」
「そう!久しぶりじゃん。何してんの?」
「いや、メシ食いに来たんだけどさ……えっ、いつぶり?」
「えっと、いつだっけ、去年……?」
「あーそうだ、去年の夏だ」

 どういうことだ。彼女はもともと顔が広い人だとは思っていたけれど、その交友関係の中にはこういうモロにハイカーストタイプの人も含まれているのか。それなのに、わたしのような人間とも仲良くしてくれるなんて。そんな風にぼんやりとふたりが会話するのを見ていると、彼女はそんなわたしに気づいたのか「ごめん、巧美」と言って「じゃあまた遊ぼうね」と二口と呼ばれるその人にひらひら手を振った。

「ごめんね、巧美のこと放っておいちゃって」
「あ、ううん全然……友達?」
「そう、高校の同級生だったんだよね」
「ふうん」

 その男に関する話題はそれで終わった。だって、わたしは特段その話を広げたいわけでもなかったし、彼女もわざわざ興味を示さないわたしに話を続ける理由もない。
 しっかりとデザートまで堪能して食後のコーヒーを飲んでいるときに、ふと隣を見るとその男はもう帰った後だった。もしかしたらわたしが途中で席を立ったときだとか、チーズケーキとタルトのどちらにしようか一生懸命考えていたときなんかに帰っていったのかもしれない。けれど、そんなの別にどうだっていい。わたしには関係のないことだ。


 ところが、そういうわけにもいかなかったようで、二回目に会ったのは賑やかな街の中だった。
 わたしはひとりで買い物に来ていて、イヤホンで音楽を聞きながら買ったばかりのパンプスの踵を鳴らして目的の店へと向かっていた。気持ちのいい天気で気分がよかった。向こうからかわいらしい犬を散歩させるおじさんなんかが見えて、もっといい気分になったりして。けれどもそんな風に気を取られていたせいで、細いヒールが道路の小さな溝にはまってしまった。
 うそでしょう、このパンプス気に入ってたのに。ゆっくり少しずつ抜こうとすればヒールの傷は浅くて済むかもしれないと思う気持ちと、あまりゆっくりしていると後ろからくる人たちの邪魔になってしまうという不安と。どうしよう。そう思っているときに声をかけてきたのがあの人だった。

「なに?ヒールはまっちゃった?」
「あ……そうなんです……」
「あ、もしかして、この前の」
「えっ」

 顔を上げるとその人と目が合った。そして、しばらくしてわたしのことを思い出したようで、「福田の友達だ!」と言ってから「なにやってんの、だせえ」と笑った。なんてひどいのだろう。けれども、その人はそう言ってさっさと行ってしまうでもなく、わたしと同じようにその場にしゃがみ込んだ。

「あー、これ結構がっつりはまっちゃってんね」
「あ……ええ、まあ……」
「はは、なにその返事」
「いや……」
「そんなんだからこんなことになるんじゃん」
「えっ……?」
「トロトロしてっから」
「…………」

 どうしてほとんど知らない男にそんな風に言われなければならないのか。けれども、ぼんやりとしていたのは事実で何も返す言葉が浮かばない。

「アンタさ、時間ある?」
「……え?」
「時間。あんの?この後なんか予定とか」
「……いや、特にはない、です、けど……」
「じゃあ、これはもう、諦めろ」
「えっ?」

 その瞬間、その人は「よいしょ」と言いながらヒールを溝から勢いよく引っ張り出した。なんとか原形を留めたまま救い出されたそれは、けれど案の定ボロボロに傷がついている。「ほら」と足元に置かれたそれをそっと履くと、その瞬間、わたしの手はその人に引っ張られた。そしてそのままその人は慣れた様子で片手を挙げ、スッとタクシーが停まる。

「かわいそうだから、新しいやつ買ってやるよ」
「えっ……?」
「慈善活動」
「…………」

 例えば、そうやって新しい靴を買ってもらった後、そのまま素敵なディナーに誘われなんかしたら、よくある少女漫画かドラマの一場面となっただろう。けれど、わたしは靴屋さんを出た後「じゃあな、大事にしろよ」と放り出されることとなる。
 疑問は尽きない。優しい人なのか、変な人なのか、こわい人なのか、それさえも判断できない。いや、安くはないパンプスを買ってもらってしまったのだから、いい人なのかもしれない。やっぱりよく分からない。それが二回目だった。


 そして、三回目。
 わたしは駅のホームにいた。乗ろうとしていた電車が時刻通りにやってきたけれど、そのドアが開くと中にはぎゅうぎゅうに人が詰まっていてわたしは少し怯んでしまった。昼過ぎの中途半端な時間帯で、こんなに混んでいるとは思っていなかったのだ。時間に余裕はあるのだからもう一本後の電車にしようか。そんな風にぼんやりと考えた。発車のメロディがホームに響き始めたとき、駆け込んでくる足音が聞こえた気がして振り返ると、それがその人だった。

「あっ……」
「お前、乗らねえの?」
「でも……いっぱいだから……」
「でも、乗りたいんだろ?」

 ゆっくりと頷きながら「それは、まあ」なんて言おうとした。その瞬間、その人はわたしの腕を掴んでするりと電車のドアの隙間をくぐる。実際に乗ってみるとぎゅうぎゅうに詰まっていると思った車内はそれほどでもなくて、もちろん他の人たちが少し奥へ詰めてくれたおかげというのもあるかもしれないけれど、ちょっとだけ拍子抜けした。なあんだ、最初から怯むことはなかったのかもしれない。
 けれども、さすがに吊革や手すりには届かなくて、人と人の隙間の何もないところでバランスを取るしかない。できるだけどっしりと立つことを意識して、身体の重心をコントロールすることに集中しなければ。

「俺に掴まれ」
「えっ……?」
「危ないから、掴まってろ」
「でも……」
「俺の腕とか腰とか、いろいろあるだろ……、嫌だったら服の裾でもいいから」
「…………」
「お前が倒れてくると俺まで倒れるだろ」
「……ああ」

 なるほど、確かにそうだ。ドミノ倒しのようになってしまうと、この人にも迷惑をかけてしまう。遠慮がちにシャツの裾にそっと手を伸ばすと、その人は「もっとがっつりいっていいから」と囁いた。
 分からない。こわいのか、優しいのか。ばかにされているのか、そうじゃないのか。チャラくてこわい。その第一印象はまだ変わらない。けれども、それだけの人でもないのかもしれない。わたしはこの人に会うたびに混乱していた。

「なんか俺らよく会うな」
「……そう、ですね……」
「あんた、名前は?」
金鑚巧美、です」
「……巧美はどこで降りんの?」
「あと、2駅……」
「あ、俺と一緒じゃん」

 そこからはどう会話をしていいのか分からなくて、わたしは握ったシャツの裾をずっと見ていた。あまりぎゅっと握りすぎると皺になって怒られてしまうかもしれない。けれども、ぎゅっと握らないとそれはそれで怒られてしまうかもしれない。やっぱりわたしは、この人が分からない。
 目的の駅名を告げるアナウンスが流れ、反対側のドアが開いた。車内から一気に放出される人の流れに溺れないように、逆流してしまうことのないように気合を入れる。

「ほら、手」

 その人はそうやって囁いた。「一緒に降りてやるから、手貸せ」と。
 やっぱり分からない。でも、優しい人なのかもしれない。クラスの人気者とはたぶんそういうものだろうし。

「あの……、すみません」

 ホームに出て人の流れが落ち着いたところで声をかけてみる。「なに?」と振り返った表情は相変わらずわたしには少しこわい。

「いろいろとありがとうございました」
「……あのさ、あんたっていつもひとりなの?」
「えっ?」
「前にさ、道にヒールがはまって動けないでいたときもひとりだったから」
「ああ……」
「彼氏とか、いないわけ?」
「あー……」
「なに」
「いない、ですね……」

 わたしの答えにその人は「ふうん」とさもつまらなさそうに呟いた。

「世界中に男はめちゃくちゃいるけどさ、」
「えっ?まあ……」
「好きになるなら、俺しかなくない?」
「えっ……?」
「一回で分かれよ……、だから、彼氏にするなら、俺しかなくない?」

 この人は急に何を言っているのだろう、もしかしてからかわれてる?そんな風に思うけれど、自分でも驚くべきことに、その人の言葉を信じたいという気持ちも少しだけあることに気づいてしまった。

「ほ、本気なんですか……?」
「は?」
「だって、そんなにちゃんと話したこともないし、数回会っただけだし……」
「俺だってそんなの分かんねえよ。でも、なんかいいなって、そういうのあるじゃん?」
「なんかいいなって、そんなふんわりとした話……」
「……巧美ってさあ、」
「え……?」
「桜が咲いたら、きれいだなって思う前に散るのを想像して悲しくなるタイプ?」
「……えっ?待って、話が、」
「じゃあ、雪が積もったら、それが黒く汚くなるのを想像して寂しくなるタイプ?」
「あの……何の話なんですか……?」
「お前は、始まってもないことを勝手に想像して先走って不安になるわけ?」
「…………」
「俺らも付き合ってみなきゃ分かんねえじゃん、合うか合わないかなんか」
「…………」

 強引な人だと思う。こんなに強引な人は今までわたしの周りにはいなかった。だからこわい。けれども、その奥の優しさのようなものを少しだけ知ってしまったような気もしていた。

「俺のこと、好きになれそうになかったら、振ってくれていいよ」
「…………」
「まあでも、そんなことは絶対ないと思うけど」

 なんて自信過剰なのだろう。そう感じて思わず見上げると予想外に優しい顔で楽しそうに笑っていて、それにつられてわたしも笑ってしまう。

「は、なに笑ってんの」
「ふふふ……、だって」
「だって、何?」
「……なんでもない」
「言わないとキスするけど」
「えっ!」
「どうする?」
「…………ここでは、嫌です」

 そう、ここは駅のホームだ。わたしは電車に乗ってここまで来て、ここからどこへ行くつもりだったのだろう。今ではもう思い出せないから、そこまで大した用事でもなかったのかもしれない。
 なんでわたしなのだろうという疑問は消えない。この人はどんな人なんだろうというのもほとんどわからない。普段の、というか、今までのわたしだったら絶対に乗らない話だろう。それでも、この人をいいかもと思っている自分もいる。
 これからずっと先、今日のことを思い出したとき、なんて自分はばかだったんだと思う日がくるかもしれない。けれど、今わたしは頭がくらくらしているんだ。そうやって自分に言い訳をして一歩踏み出した。