週末あけといて、とたまたま一緒になったエレベーターで言われた。言われなくとも予定が入ることなんて滅多にないわけだけど。分かった、と伝えると、光太郎は満足気にわたしの頭を二度ほど撫でてエレベーターを降りていった。あの受付の女の子にでも見られたらどうしてくれるつもりだ、と心の中で悪態を吐きながらも、髪の毛に残る温もりに少しだけ頬が緩む。
そして彼が言う週末が明日に迫った金曜日の夜。わたしの携帯は、明日9時に迎えにいく、という旨のメッセージを受信した。やけに早い、遠出するつもりだろうか、などと考えていた頃に携帯がぶるぶると震え出す。
「はい、」
『もしもーし、メールみた!?』
「うん、見たよ」
『そういうことだから』
「どこいくの?」
『それはお楽しみ!』
「……なにそれ」
『とりあえず9時だから、よろしく!』
「わかった、」
『あ、一泊分の荷物だけ用意しといて!』
え、とわたしが発するのとほぼ同じタイミングで電話は切れた。てっきり日帰りかと思っていたが、どこかに泊まる予定らしい。いっつも急なんだよな、と思いながらも、わたしには無いその行動力を少し羨ましくも思った。一泊になったからと言って大して増えなかった荷物をソファに置いて、なんだかんだで遠足前日の小学生みたいに浮かれている心を落ち着かせる。一泊でどこかに行く、というか旅行自体久しぶりだったので、なんだか嬉しくなって、いつもは送らない、また明日ね、なんてメールまで打ってしまった。
昨晩念を押された通り、9時ぴったりにわたしの家のインターホンが鳴る。一泊分の荷物を無理矢理に詰め込んだ鞄を肩にかけて出迎えると、よく見る、お気に入りらしい洋服を着た彼が満面の笑みで立っていた。
「おはよう!」
「おはよー、」
「荷物持つぞ」
「うん、ありがとう」
「……これだけ?」
「ちょうどいい鞄なくて、詰め込んだ」
「言ってくれれば貸したのになあ」
「だって急なんだもん」
「それはごめんって」
悪びれる様子もなくくしゃっと笑って、それから、行くか、とわたしの手を引いた。マンションの裏に止められていた彼の車は寒くも暑くもない適温に保たれていて、わたしが助手席に座ると、はい、と缶コーヒーを渡される。至れり尽くせりだな、なんて思いながらそれを受け取って、ちゃんとわたしがいつも飲んでいるメーカーの微糖を選んでいることに思わず笑ってしまった。
「え、なに」
「んー、ありがとう」
「コーヒー?」
「うん。よく覚えてたね、これ飲んでるの」
「いつも会社の自販機で買ってるだろー」
「うん、買ってる」
「見てました」
「……それはストーカーっぽいからやめて」
「なんでだよ」
ちょっとだけ不服そうな彼を横目に、缶コーヒーのプルタブを開ける。別に特別好きだったわけではないけれど、会社の自動販売機はレパートリーが少ないから結局いつもこれを買っているうちに、これ以外のコーヒーが飲めなくなってしまったのだ。まさかそんなところまで見られていたとは思わなかったけれど。ふと後部座席を見ると、彼の荷物やら、先ほどまで着ていたであろう上着やらがあまり整理されていない状態でごちゃっと置かれていた。その下から旅行雑誌らしきものが少しだけ顔を覗かせていて、「草」という文字だけが見える。
「……草津いくの」
「えっ、なんでわかったの!?」
「るるぶ置いてあったから」
「えっ!?うわっ、マジだ……」
「そんなに落ち込まなくても」
「サプライズのつもりだったの!」
「なんかごめん、見なかったふりすればよかった」
「それもなんか辛い……」
ハンドルに頭をくっつけて項垂れている彼は、思ったよりも落ち込んでいるようだった。悪いことしたなと思って、草津いいね、と呟けば、むくりと起き上がって長い睫毛をぱちぱちさせながら、ほんとに?とまるで小動物の如くこちらに視線を向ける。うんと頷くと、内緒にしたかったけどいっか、と急なポジティブを発揮してカーステレオから流れる音楽に合わせて鼻歌なんかを歌ったりするのだった。
「でも、なんで草津?」
「行きたいって言ってただろ、温泉」
「……言ってたっけ」
「え、まじ?嘘だろ?」
「あー、言ったかもしれない、うん」
「絶対思い出してないじゃん、今の感じ」
「うん、でも行きたいよ、今でも」
「俺ちゃんと調べたのよ?」
「うん、ありがとう」
「すっげー喜んでくれると思ったのに」
「喜んでるよ、伝わってないと思うけど、昨日から」
「ほんと?」
「うん」
ならよかった、と潤んだ宝石みたいな瞳がわたしを映す。最近人事異動があったり後輩の教育係を任せられたりでバタバタとしていたので、疲れていたのは確かだった。多分ワイドショーか何かの特集でも見ながら、温泉行きたいな、とぼんやり呟いたのだろう。本人ですら覚えていないことを彼が覚えている、というのはこれまでもよくあって、わたしはその度に周りを見る能力に長けている人なのだなと感心したものだ。
「言われてみればなんか今日おしゃれしてない?」
「……言われてみればって何」
「いや、なんか気合い入れてくれたのかなって」
「変わんないよべつに」
「そうか?化粧の感じとか違うなって思った」
「そんなこと気づかなくていい」
「えー、嬉しいもんじゃないの」
「わたしは恥ずかしい」
「難しいなー、そういうとこも好きだけど」
「……はい?」
ナビを操作しながら、視線を動かすこともせずそういうことを言えてしまうところは、見習うべきか見習わないべきか。確かに昨日はパックをしたし、ちょっといい化粧品をおろしたし、メイクも秋っぽくした、けれど。気づいて欲しいからやっているくせに、いざ気づかれるとどうしていいか分からなくなる。
でも全部おれのためでしょ?と、全てを自分主体にしてしまうのは如何なものかと思うけど、まあ実際間違っていないので何も言えないわけで。結局うんと頷くしかないわたしは、やっぱ好きだわ、という何度聞いても慣れない告白を頭の片隅に捉えて、『僕を見つけないで、でも忘れないでほしい』とカーステレオから流れるあまり知らない音楽に身を委ねた。