「木兎さんと付き合ってるってほんとですか」
私怒ってます、と言わんばかりの険しい表情でそう言った目の前の女の子は、確かうちの受付をしている子だった気がする。いつの世も、こういう面倒な争いごとは女子トイレで起こる、というのは定説なのだろうか。ちなみにこの睫毛も髪の毛もくるんと綺麗にカールさせて、ピンクのキラキラを爪の上にのせている子とわたしは、恐らく一度か二度、挨拶を交わしたくらいしか面識はない。ほぼ初対面と言っていい。
「……ただの噂だと思うけど、」
「でも仲良いですよね」
「はあ、そうかな、分かんないけど」
「やっぱり付き合ってますよね?」
「……だから、」
「……もういいです」
鏡を覗き込んでメイクを直す後ろ姿に、わたしはちっともよくないけど、と言おうとしてやめた。彼女の方向を向いた身体は向くべき対象を見失って、ただ呆然と立ち尽くしている。そのまま同じ空間にいるのは気まずくて、結局化粧も直さず出てきてしまった。このあと大事な来客があるので、お茶の用意をしなければいけないし、資料のコピーだって後輩に頼まなければいけない。
結論から言えば、ただの噂というのは大嘘である。つまり彼女の言っていることは正しい。まだ寒かった冬、確か新年会か何かの帰りに、酔っ払った木兎くんに変な告白をされた。変な、というのは、それが、答えを求めない一方的なものだったからだ。酔っ払いの戯言、くらいに思って放っておいたのだけど、それから二ヶ月くらい経ったある日、彼に、そろそろ限界なんだけど、と酷く険しい顔で詰め寄られて、あれはやはり告白だったのか、と気づいたわけだ。
「やっぱここにいた」
「うわ、びっくりした」
給湯室でお湯を沸かしている時、ひょこっと顔を出したのは紛れもなく、わたしがよく知らない子と争う原因を作った男だった。本人曰くの「ただのスター」、世間一般的には東京オリンピックの日本代表にも選抜されたバレーのトップリーグに所属するプロ選手だ。能天気でポジティブ。考えるよりまず行動。一見わたしとは正反対のように見えるけれど、彼曰く、わたしと彼は似ている、らしい。なにが似ているのかはよく分からない。彼の性質をよく知る赤葦くんだって不思議そうに首を捻っていたから、余計に。
「手伝ってあげよっか?」
「……社内では敬語」
「いーじゃん、誰もいないし」
「よくないし」
「マジメだよなあ、ほんと」
「……五年もいるといろいろあんの」
「すーぐ歳上ぶる」
「歳上だもん」
格好いいけどあんまり似合ってないスーツ。やっぱり彼にはユニフォームだとかジャージだとかベンチコートだとか、スポーティーさを全面に出したそういうものが似合うから、そのイメージと反対のものからはどこか浮いて見えてしまう。首許にはわたしがあげたピンドット柄のネクタイが居心地悪そうに収まっていた。あまりファッションには関心がないようで、あげたものも勧めたものも特に組み合わせなど考えず身につけてしまうところは、素直でかわいいと言うべきか、流されやすいと言うべきか。っていうかそのネクタイ、昨日もしてませんでした?
「ねえ、」
「ん、なになになに」
「……誰かに言った?」
「なにが?」
「だから、わたしと付き合ってること」
「えー、なんで?」
「なんか受付の子が騒いでたから」
「あー、こないだ告白されたから、彼女いるって言った!」
「それだけ?」
「おう、そんだけ!」
「そっか」
「え、なあ、告白されたことにはノーリアクションなわけ?」
「うん」
ふざけんなよー、とまるで駄々をこねる子どもみたいに言うので、わたしは思わず笑ってしまった。やっと笑った、とやけに嬉しそうな顔をしているのを見て、確かあの時もこんな感じだったな、と思い出す。木兎くんはただの後輩で、全く意識なんてしたことがなかったから、ちゃんと断ろう、そんな風に思っていた。けれど、断るならちゃんと知ってからにしてください、と、珍しく真面目な顔で言われて、それから何度か食事に行った。彼は無駄に大きな声で喋り、無駄にきらきらしく笑って、わたしに何度も好きだと言った。最近よく笑ってますね、と周りに言われるようになったのは、その頃からだった気がする。
「てか騒いでたってなに、なんか言われた?」
「ううん、訊かれただけ」
「聞かれただけって、なにを」
「べつに大したことじゃないし大丈夫」
「大丈夫じゃなさそうな顔してる」
カップに紅茶を注ぐわたしの顔を心配そうに覗き込む。やけに整った、目力が強い、生命力にあふれている顔。わたしなんかといるのがとっても勿体ない、でも絶対に、離したくないひと。そんな気持ちにようやく気づいたのは、四度目の食事の帰り道だった。もう何度目かも分からない、彼の好きという言葉に、わたしも好きだと告げた。いつからかは分からない。感情が生まれる瞬間なんて、いつだって突然だから。
「べつに何言われても大丈夫だよ」
「智香がよくても、俺はいやなの!」
「わたし、光太郎がいれば笑ってられるから、大丈夫」
「……え、待って!今のもう一回言って!」
「やだ。ぜったい言わない」
「え、なに!チョーかわいかった、いまの!」
「うるさいうるさい」
「社内では木兎くんじゃなかったんですかあー?」
「あーもう、うーるーさーいー」
あの日、好きだという返事を聞いた彼の顔を、わたしは一生忘れないだろう。もし離れてしまうことがあったとしても、そんな自信がある。あの時悩んだ時間も、いまこうやって流れている時間も、ちゃんと、全部愛おしい。
いま心の中にある気持ちは多分おそろいで、彼が言っていた、似ている、という言葉も、あながち間違いでもないのかもしれないと思った。