醜い蕾は二度と咲かず



 週末、久々に休みが取れて海行けることになったのだと、侑がビールに口をつけて微笑んだ。最近多忙を極めていた、というか多忙でない時期がない彼にできた少し長めの休みにわたしはよかったね、と頷いた。
 ジョッキグラスを掴むごつごつとした手に、少しビールで塗れた唇に、目が離せない。二人で飲むことが初めてではなかったけれど、ああなってからは初めてだ。何事もなく近況を話す彼の声を聞きながら、わたしは右手で左手のピアスに触れた後、自分がきちんと微笑んでいるのか分からなくなっていると気付いた。
 少し長い休み、きっと一人で行くわけではないだろうし、旅行先にも友人はいるだろう。恐ろしいほど顔が広い。鞄に仕舞われて鳴っているのか、通知が来ているのかも分からない彼の携帯電話に登録されている人間の人数を考えてしまった。あんなことで簡単に好きになってしまうなんて、わたしは十代なのだろうか。今の十代でもこんなことないはずなのに。

「最近、どうなん」
「べつに普通だよ、仕事して、寝て、遊んで、仕事」
「遊んでるんか」
「残念ながら女の子とだけどね」

 わたしがいつもの癖で自嘲気味に笑うと、彼の唇がきちんと引き攣るのが分かった。本当に一瞬だけ引き攣って、自然に直って、綺麗に、明朗快活に「ホンマに変わらんってことな」と口角を上げた唇はひどく滑らかに動く。

 この前、侑とわたしと数人でお酒を飲んだとき、わたしは少しだけ酔っていて、彼はそこそこに酔っていた。
 あまり覚えていないけれど、彼も酔っていたのだと思わないと些か救いがないからそういうことにしておく。会計を済ませて店を出た瞬間にわたしの携帯がないことに気付いて急いで店に戻ると、彼はわたしに無言でついてきて、ソファ席の隙間に落ちていた携帯を拾い上げたわたしに、そのまま深いキスをしたのだ。舌を絡ませる、カップルがするようなキスにそのまま足の力が抜けて、わたしはただ彼の髪の毛に指先を絡ませ、反対の手は彼の指先に絡ませた。指先があまりにも強い力でわたしの指先を握るので、ああ、そういえば侑は男だった、と気が付いた瞬間だった。アルコールが見せる夢だと思うほど何度も、何度も、なぜかはわからないけれど、わたしが呼吸を求めて唇を離すと、呼吸が終わるタイミングでまた彼の唇はわたしの唇をふさいだ。今思えば、ばか、だとか、どうしたの、だとか言って、彼の肩を押して笑えば良かったのだと思う。彼の携帯にも来ていたであろう、けれど大きな音が鳴らなかったからわたしの携帯に鳴らしたのだろうという友人の電話が何度も何度も鳴り響くまで、夢か魔法にかけられたように、ただ二人きりでソファに沈んでいた。唇を離したら、店を出る前にレストルームで塗り直していたリップグロスは全て取れていて、真っ黒な瞳の侑がただ一言「戻るか」と声を発したのを覚えている。熱くも冷たくもなく、ただ事実だけを告げる、淡々とした声。あっという間になくなっていく彼の体温の代わりに、携帯の背中のつるつるとした部分を繰り返し撫でて、彼の後ろをついていくようにまた店を出た。三軒目に向かおうとする数人のうち、一番親しい女の子に耳打ちをして、わたしは一人タクシーを拾って家に戻った。一度ちらりと目が合ったような気がするけれど、彼はいつも通りの侑のままわたしに背を向けて三軒目に向かっていき、友人がわたしが帰る旨をそっと伝えてくれたのも見えた。
 会ったばかりのこの頻度で彼がわたしに声をかけたのは、贖罪と確認のつもりだったのだろう。わたしは宮侑を好きになってはいないし、あの夜のことを気にしても覚えてもいない、そんな顔でここに座ることを求められているのだと知っている。

「お土産買ってきてよ」
「なにがええ」
「なんでもいい、食べ物がいいな、食べ物か飲み物」
「酒?」
「んー、お酒でもいいよ」
「じゃあ、なんか適当に買ってくな」

 何人でいくの、誰といくの、もともといくつもりだったの、訊きたい言葉は全て、女としての言葉で、全てをわたしはまたアルコールで流し込む。嫌いなもんあったっけ、と言う彼の声に「ないよ」と言った瞬間、今日初めて彼がわたしを、わたしが彼を見たのだと気付いた。あの夜から、あの唇を離して呼吸する瞬間に見つめていた真っ黒の瞳が、驚いたように、怯えたようにまたわたしを見つめている。唇を重ねた瞬間、彼の身体の重さを感じた瞬間、たぶん、ちょっとだけびっくりした。なにも変わらない、なんて風に出来ないくらい、身体が溶けきってしまった。自業自得の割に恐ろしげな顔でわたしを見つめる彼が、またいつかなにかの迷いや寂しさでわたしのことを求めたならば、その時に彼氏がいても許してしまいそうだな。でも、侑とは付き合いたくないな。きっとすぐ、侑がわたしを嫌いになるから。分かりきったことを考えたら、いつの間にかわたしはきちんと笑っていて、彼が不愉快そうに眉を寄せた。

「なに笑うてん」
「え?」
「急に、」
「いや、侑とは死んでも付き合いたくないなって思っただけ」
「言い過ぎやろ!」

 侑が明らかな安堵の表情で声を上げた。こうやって言葉に誤解は生まれていくのだなぁ、としみじみ感じながらも、わたしは否定も訂正もする気が起きない。勘違いしてくれて構わない。事実、死んでも侑とは付き合いたくないから。この言葉でわたしを都合のいい女と認識してくれたらラッキーだな、と思ったりもした。けれど、付き合いたくないけれど、これが薄っぺらいチープで歯止めの効かない恋に似たなにかに変容していることも分かっている。恋はたぶん勝手にはじまるし、勝手に終わる、だから回った歯車をわたしはいま心の中でじっと見つめるしかない。ぐるぐるぐるぐる、侑がなにやら話している声を聞きながら、このまま、テーブルから身を乗り出してわたしから唇を奪ったら。そうしたらもう二度と会うことはないんだろうな。

「ご機嫌でなによりやわ」
「うん、結構ご機嫌」
「なんで?」

 探るような目つき、彼はすぐに臆病さを見せて、けれどすぐになかったことにもする。わたしは慎重に言葉を選ぶ。女の顔ではない、ただの友達の顔で、なにも覚えていないと彼に思わせるような言葉。

「お土産、楽しみだなぁと思って」
「……うっわ、めっちゃ分かりやすいな」

 先程と同じように、いやそれ以上の笑顔で侑は笑う。
 たぶん、いつもと違う質や量のお土産が手渡されるのだろう、これで彼の贖罪は完了を遂げ、安心感にも包まれるはずだ。
 もう全然一生消えないし、戻れないし、もう好きになっちゃったよと言ってみたい被虐心もある。その被虐心が自分を傷つけるものなのか、彼を傷つけるものなのかもわからない。
 だからわたしはまだなにもしない。既にぬるくなり始めたアルコールに口をつけて、当分お酒は飲みたくないな、と真剣に考えながら。