二人、いやもしくは三人掛けのソファにだらりと寝転がった侑に向かって声をかけて鞄を持ち直す。
だらけた姿勢でテレビを見ながら少しばかりうつらうつらとしている様子の彼に向かって、「ねえ、侑」ともう一度名前を呼んだ。
「早ない」
「だって普通に電車乗るもん、まだ時間あるし」
「は?送るわ」
「そうなの」
「もう暗いしな」
「……アリガトウゴザイマス」
「もっと喜べや」と言いながら寝そべっていたソファから起き上がった侑の前髪が少しだけ跳ねている。わたしの視線で本人も気付いたのか、前髪をぐしゃぐしゃと乱雑に触りながら、自分の隣をぽんぽんと手で叩いて無言で示す。
さっきまでは一人がけの方のソファに座らせていたくせに、帰る、と言い出したらこれだもんな。そんな単純なところも嫌いじゃないけれど。
鞄を床に置いて侑の隣に腰かけると、やはり眠かったのかソファにはまだ体温がしっかりと残っている。微熱なのかもしれないけれど、彼は自己責任論と体調管理の鬼だからそんな風にも思えない。やっぱり未だに重そうな瞼をゆったりと擦りながら、侑が携帯に手を伸ばす。
「何時までに送ったったらええ?」
明日の予定を逆算して、わたしは侑といられる一番ぎりぎりの時間を頭の中で考える。例えば、睡眠時間はこれくらい確保したいけれど、朝ご飯は省略して、いや、睡眠時間を削るべきか、とか。そうして算出した時間を告げると、彼は携帯のアラームを呼び出して時間の設定をし始める。手慣れた操作を終えると、携帯を放り投げて、つけっぱなしになっていたテレビの電源をぱちんと落とした。
違和感を感じさせないほど酷く自然に侑はわたしの隣にくっついてくる。べたべたと触ってくるわけでも、甘えてくるわけでもなく、ただふたりがひとりになるみたいな体温の同一化が心地良い。車や電車の揺れよりも眠気を誘うのは、彼の体温なのか存在なのか。
「ずっと、こうしてたいね」
「なに?」
「いや、帰りたくなくなっちゃうなって」
「……へえ」
侑の唇が面白いほど綺麗に歪んだのが自分の両目に映り、この瞬間、このタイミングで彼に火をつけてしまったのだと完全に理解した。それなりの期間で一緒にいるはずなのに、時間を共有しきっているはずなのに、どうしてこんな明らかに、分かりきったことをしてしまったのだろう。移った彼の体温のあたたかさにこちらまでうつらうつらとして、まるで寝起きのように脳がぼんやりとしていたから、要するに気が抜けていたのだ。
後悔は時すでに遅し、というやつで、侑の目には先程と違う光が宿っている。獣を狩る動物は生きるために行っているから楽しい、という感情があるのだろうかと、いつも彼の瞳に潜む光を見ると考えてしまう。人間は狩猟を娯楽としても行っているわけだし、侑もたぶんそれに酷似した感覚でわたしと向かい合う瞬間を最上級の娯楽として楽しんでいる人だ。
侑ひとりでもどうにかぎりぎり収まっているとしか言いようがないソファにふたりで寝転がるのは無理がありすぎるのに、簡単にわたしは押し倒されてしまう。ぎしぎしと無遠慮な非難の音がソファから響いてくるから、いつかこのまま壊れてもおかしくないし、きっとそのうち本当にそうなるだろう。でも、せめて壊れるときは侑ひとりが起き上がるときにして欲しい。ソファと侑に挟まれてプレスされるなんて、考えるだけでも恐ろしくて生きている自信がない。
そんな下らないことを考えているうちに彼の指先がわたしの首筋に伸びて、ごくり、と反射的に喉が動いてしまう。侑は目ざとく「何を今さら緊張しとんねん」そう言ってうっそりと笑いながら、つう、と首筋に指先を乗せる。まるで彼の指先に線がついたみたいに、きっちりとその指先の流れに沿うように彼の唇が首筋を順序立てて触れていく。
「……あ、の」
「んん?」
「これ、ほんとに」
「なに?」
埒が明かないうえに勝率がない返答に言葉が詰まった。ちゅ、ちゅ、というわざと立てているとしか思えないリップ音に眩暈がする。
侑の背中でちょうど見えないところにある壁の時計が何時を示しているのか、わたしにはわからない。本当に約束の時間にわたしは帰れるのだろうか、なんて分かりきったことをぼんやり考えていると、首筋に軽く歯を立てて「俺以外のこと考えてるやろ」と恐怖を覚えるくらい正確な言葉を放った侑がわたしの唇をふさいだ。
彼の汗ばんだシャツを掴んでいると、びびび、というかばばば、というか、デフォルトで設定されている、面白みがなく尚且つ乱雑な煩さを伴ったアラーム音が唸り声を上げた。もうそんな時間、と解放された唇でまっさらな空気を吸い込んでみるけれど、侑はアラームを止めた携帯を容赦なく当たり前のようにテーブルに放り、すぐこちらへ戻ってくる。まるでアラームなんてなかったかのように、音なんて聞こえなかったかのように、平然とした顔をしていて、勿論分かってはいたけれど、分かってはいたけれど。
もう一度、まるで帰れないことを後悔したわたしを責めるような、いや実際きっとそんな気持ちで侑はわたしに唇を押し当てる。大きな手が両肩をがっしり掴んでいるのも、確実に、如何わしい意図はなく、ただ、逃がさないために掴んでいるだけだ。
「言うたの、自分やろ」
「それは」
「絶対、帰さへんからな」
完敗だった。明日は睡眠不足確定演出、というスロットのような画面が一瞬頭に浮かんだあとで、またわたしはソファに沈み込む。
だって本当は、彼に完全に負けることも、睡眠不足になることも、全部全部どうでもいい。
侑が言った通り、帰りたくないのはわたしで、侑もわたしを帰したくないのだから、しょうがないのだ。なにもかもがしょうがない。好きだからだとか、不快ではないからだとか、そんな単純さでわたしと侑は繋がっている。
電車や車の揺れよりも心地良く、ふたりがひとりになるような肩をくっつけて並べるだけであたたかくなる、シンプルな関係で。