薬指を見つけなくては



 カーテンの隙間から、やってきて、走り去るタクシーのランプの煌々とした光を眺めていた。
 テレビでははきはきとした声で女性がニュースを読み上げていて、季節に似合わないマグカップがテーブルで湯気を立てている。
 ガラス越しにふわりとぬるいようなあたたかいような風が首筋を撫でた。ガラスを抜けてやってきた夏の風なんかではもちろんなく、ただカーテンが起こした小さな渦みたいなもの。
 夜の景色が網膜に焼き付いたせいか、部屋の光が、ソファに横たわる彼の携帯の明かりが、やけに眩しく感じた。電力の無駄遣いと言っても過言ではない眩しさで、眉を寄せて携帯を眺めている彼は、いつもより幾つも衰えて見える。綺麗に通った鼻筋や、すっぴんの肌の美しさ、何時でもふるふるとした唇を棚に上げた乱暴な感想である。彼に老いが見えるのは、まばたきの遅さのせいか、ゆるんだ口元のせいか、目の下の隈のせいか。

「寝たら?」
「もう少ししたらな」
「目ぇ悪くなるよ、そんなにじっと見てたら」
「やって、いつ見ても飽きひんもん」

 がちがちの、四角く分厚く固いスマホのカバーを簡単に指で掴んでこちらに画面を見せてくる。見慣れた、彼のお気に入りの一枚を見てわたしは小さく声を上げる。侑は称賛と捉えたらしいけれど、本当は「ああ、この前も見たあれ」という意味だった。
 彼のお母さんの家で今は暮らしている愛犬は一時期、彼の家にも居り、その頃の溺愛ぶりは恐ろしいものだった。実家に行った今となっても、彼は事あるごとに犬の洋服やらおもちゃを買い与え、写真を撮る。最新機種をあまり使いこなせていないのか、元々のセンスがないのか、写真はその愛犬の可愛さを増すような仕上がりではない。時たま感心するような出来のものもあるけれど、大体がピントがあっていない、だとか、暗い、だとか。角度や構図、明るさを調整するだけで雰囲気が変わるとはいえ、そういうのには得手不得手があるのだろう。
 だから彼が見せてくれる写真は、家では無いどこかで、彼では無い誰かが撮影した綺麗なものが多い。それか、彼の母が定期的に送ってくる(というけれど、彼がせがんでいる節もあるのではないかと踏んでいる)写真や動画。
 一度見始めると止まらず、先日の試合の話や、MSBYのメンバーと明け方まで遊んだ話、大型テーマパークへ行った話などは数回で終わった割に犬の話題に関しては数限りない。娘のようにかわいがっている、という感じであるけれど、彼に娘が出来、反抗期や結婚などが起きたら彼は毎回倒れるのだろうな、といつも考える。だから、ちいさく愛くるしく、少し遠いところにいる犬で良かった、と心底思うのだった。

「かぁわいいやろー」
「ほんっと溺愛してるね」
「次いつ会えるんやろ」
「地味に忙しいもんね、侑」
「ま、稼がなあかんからな」
「ほんと、養う相手ができちゃったもんね」

 わたしが座ることが出来るように、侑が長い足を引っ込めてソファに座りなおす。話が長引きそうだったので隣に座る気は毛頭なかったけれど、引っ張られるように隣に腰かけてしまった。携帯の画面をスライドさせ、次々に出てくる彼の楽しい日々の写真にわたしがいないことにはすっかり慣れている。携帯の中の思い出や、相手を見る目と、わたしを見る目の温度が違う、とわたしだけが知っている。それはべつに嫉妬しているとか、悲しんでいるとかではなく、世の中にはなんでも順位というものがあり、それが時と場合に応じて変動するというだけだ。
 出会ってから死ぬまで侑の関わる人間の一番でい続けるのは、多分愛みたいなものを注ぐ方も注がれる方もきっと疲弊する。わたしのこの考えを誰かに伝えても、やせ我慢しないで、だとか、本当は寂しいんでしょ、だとか見当違いなことを言われるのだと分かっていた。一番になりたいから一緒にいるわけでも、愛を注がれたいからここにいるわけでもない。ただわたしが侑の隣にいたくて、偶然、奇跡的に彼もそれを許容しているからだ。
 なんとなく隣に座ったものの、自分の携帯はベッドサイドに置いてきてしまったしやることがない。テレビのニュースは最近頻繁に流れている政治的問題について、何人もの男性がなにやら討論めいたものを行っている。銀縁の眼鏡をかけた年嵩のいった男性が、淡々と、けれど言葉に徐々に熱を込めて話し出す。仕事とはいえ、こんなに何かに訴えかけるように話すと疲れるだろうな、とわたしはゆっくりと瞬きをした。真剣に見ていたわけではなく、その男性の言い分がどうこうではなく、切々として、生真面目で、彼自身はそれを正しいと思い、相手にもそう思って欲しい、というのが伝わってくる声だった。テレビを見ている人が、テレビをつくる人が、討論の相手が、それをどれだけ理解するのかは別として。
 投げ出していた両手のうち、侑の側にある左手が、大きな掌に包まれても、すぐに動くことができなかった。ぎゅ、と掴まれても彼の手の温度は熱くも冷たくもないせいで、まるで自分の身体の部位が外れて乗っかってしまったみたいに感じた。ゆるゆると顔を上げると、侑が十二分に水を吸い込んだ樹木のような力強さでこちらを見ている。

「なぁ、また妬いた?」
「なんのこと」
「相変わらずやなぁ」

 左手に置かれた掌は、まるでスタンプするかのようにきっちり、湿度と丹念さをもって置かれている。右手に収まった携帯で彼は画面を操作して、お互いの間の辺りに差し出す様にした。映っているのは彼の撮ったピントの合わない、カーテンを閉めているわたしの横顔(といっても殆ど顔は映ってない)。

「撮影は事務所通してください」
「あれ、俺が事務所やと思ったけど」
「臆面もなく」
「彼氏やから。当たり前やろ」

 ありとあらゆることに臆面のないわたしより年上の彼は携帯の画面をじっと眺めてから、わたしの顔を改めて眺めた。見比べるようにしてから、左手に力を入れる。わたしの手にじんわりと汗が滲んでいることなんて彼は気付いてすらいないのだろう。汗ばんでいる、と考えたのを読んだわけでもないのにぴったりとしたタイミングで彼の右手が離れて、わたしの耳の後ろを撫でた。さらさらとした平たい指先が二、三回耳の後ろの曲線をなぞって、いつの間にか疲れていると思っていた彼の顔は満ちていた。
 じっとその目の中に映るわたしはひどく不服そうで、唇は変な形に曲がっている。侑はそれでもわたしを、実家にいる愛犬を撫でるように何度も何度も撫でて、わたしの名前を呼んだ。「一番やで」、繰り返される言葉をわたしが求めていないと知ったら彼はどう思うだろうか。「本当に?」、わたしは拗ねていた女のふりをしてちいさく首を傾げると、さらに彼は満ち足りた顔をした。
 一番だと言われたよりもずっとずっと、自分の唇がいやらしく動くのが分かる。過不足しかないわたしたちの大きな部屋の、小さな世界の中で、二人だけでこうやって、たくさん誤解していきたい。
 侑の指先に指を絡めると、彼の唇も簡単に三日月の形になり、わたしは声を出して笑いそうになった。