綺麗な神さまじゃなかった



「結構うまくいくと思いません?俺たち」

 他の社員がお土産と言っておいていったお菓子の袋をあけながら、彼はそう言った。そしてその声は、小さな会議室でどこにもぶつかることなくわたしの耳に届いた。跳ね返るように顔を上げたわたしを見つめる瞳はやけに優しくて、わたしは咄嗟にそうですね、と返事をしていた。意味わかってます?と少し照れ臭そうに笑った彼の顔は、あれから何年か経った今でも、鮮明に思い出すことができる。
 始まりといえば、わたしが担当しているとある企画の取材対象がたまたま彼だった、というだけだ。考え方や趣味がなんとなく似ていたことだとか、一緒にいてそんなに気を遣わないことだとか、好きになるのに時間はそんなにかからなかったと思う。それはどうやら彼も同じだったようで、企画も終盤に差し掛かったあたりで、冒頭の台詞。確かにうまくいっていると思う。あれから何年か経った今でも変わらず。
 けれど時々、ほんの時々、考えることがある。残業終わりの帰り道、ひとりで眠るには広すぎるベッドの中、ひとつ歳をとった日の朝や、電話越しに母の声を聞いたとき。わたしの歩く道は、いったいどこへ繋がっているのか、と。

「……京治くん、脱皮したの」
「は?」
「服、脱ぎっぱなし」
「ああ、ごめん」

 書斎から出てきた彼は腕を天井に伸ばして、んん、と小さくうめき声をあげた。それから床に散らばった脱ぎっぱなしのジャケットや靴下を拾いあげて、靴下は洗濯機に、ジャケットは椅子の背もたれに。もう何着ものジャケットを背負った椅子はあと一枚でもひっかけたら後ろに倒れてしまいそうだけれど、きっと彼は、椅子が倒れてしまうまでそれに気づかないだろう。

「帰ってたんだ。気づかなかった」
「うん、もう二時間くらい前から」
「まじで?」
「まじで」
「超集中してた」
「うん、コーヒー飲む?」
「飲む」

 帰ってきてすぐに淹れたコーヒーをもう一度火にかけると、すぐにコポコポと沸騰して白い湯気が上がった。こんな風に簡単に温めなおせたら、楽なのに。そんなことを考えては、どうしようもない闇の中に勝手に迷い込んで、ひとりで悶々とする日々。わたしは全てを受け入れて納得できるほど大人ではないし、バカなフリして核心をつけるほど子どもでもない。だから、結局どうしようもなく無限ループ。

「はい、コーヒー」
「ん」
「熱いから気をつけ……」
「熱っ」
「……ほら」

 一緒に住もうと言ったのは京治くんの方だった。確か、付き合って一年と半分くらい経った日のこと。彼はもちろんのこと、わたしも仕事が忙しくなってなかなか時間が取れなくなって、たまの休みも外では滅多に会えないから自分の家とこことを行き来していたわたしを見て、京治くんが一言、ここ住めば、と。その時はわたしも嬉しくって、なんだか有頂天になって、すぐに引っ越してくることを決めた。もし、それを言われたタイミングが今だったとしたら、わたしは彼と一緒に暮らしていただろうか。

「わたし、明日から実家だから」
「え?休み?」
「うん、有給溜まってたから」
「そう。なんかあったっけ」
「……たまには帰ろうかなって、最近行けてなかったから」
「ああ、そう」

 友人や同僚の結婚話を、彼の前でしなくなったのはいつ頃からだったろう。そして、その話題を避けていることに、彼が気付き始めたのは。別に期待してたわけではないけれど、もし彼にまとまった休みができたら。そう思ってなかなか消化できなかった有給。もう期限切れちゃうよ、と上司に言われて、数ヶ月前に招待状が届いていた地元の友人の結婚式に合わせて明日から消化することにした。
 どこかを境に期待することをやめた自分が嫌いだ。期待して傷つくのも、傷ついたところを見られるのも嫌だった。いつしか相手のことを小さく見積もって、どこかで納得する癖がついた。嫌いになったわけではない。少なくともわたしはあの頃と変わらず彼のことが大好きだし、大切だとも思える。でももう決して、あの頃に戻ることはない。

「もう寝るの?」
「京治くん、寝ないの?」
「もうちょっと仕事する」
「……待ってようかな」
「結構遅くなると思うよ、」
「……そっか」

 申し訳なさそうに目線を泳がせた京治くんを見て、わたしのもやもやは募るばかり。わたしが京治くんの言動にちょっとイラッとしたり、ちょっと落ち込んだり。そういうの、隠してるつもりだけれど彼は聡明だから気づいているんだと思う。その場では気づいてない振りをして、翌日ちょっと有名なところのケーキを買ってきたり、わたしの好きなご飯を作ってくれたりして、どうしたのと問うわたしに、そういう気分だったから、なんてなんでもないように言う。わたしが好きになった人は、そういう人だ。わたしたちは似た者同士で、だからこそ分かり合えることはたくさんあるけれど、何かを言葉にして伝えるのが本当の最善だと思えない時に口にするのはお互いに苦手だったりする。

「……なんかあった?」

 寝室に向かう途中、後ろから京治くんの声。心配してくれている、そう素直に思えればいいのに、今のわたしには、めんどくさくて堪らない、呆れた声に聞こえてしまう。

「なにもないよ、なんで?」
「……いや、別に」
「仕事、無理しないでね。おやすみ」
「……うん。おやすみ」

 後頭部を軽く引っ掻いて、京治くんはちょっと俯いたまま書斎に消えていった。京治くんのいない寝室はいつも、暗くて、ちょっとだけ冷たい気がする。吸い込まれるように入ったベッドの中で、今日もわたしは答えのない問いにぶつかって、答えを出せないまま眠りにつく。



「……智香、」

 名前を呼ばれたような気がして、ゆっくり目を開ける。夢なのか、現実なのかも分からない曖昧な意識のまま、わたしはベッドのふちに腰かける黒い影を見上げた。まだあたりは真っ暗で白んでもないし、布団が擦れる音以外なにも聞こえない。布団に入ろうとしていたのか、半分めくられた隙間から、ひんやりとした空気が伝ってくる。

「……さむい」
「起きて一言目がそれ?」
「いま何時……」
「んー、四時くらい」

 不意に重ねられた手の温度が、これが夢ではないことをわたしに教えてくれた。いつもはわたしが起きないようにこっそり眠るくせに、どうしたんだろう。目が慣れてきて、ようやく表情が読み取れるようになった京治くんは、ちょっとだけ眉毛を下げて、困ったようにこちらを見ていた。

「明日、俺も行こうかな」
「……仕事でしょ?」
「うん」
「どうしたの、急に」
「なんかこのまま、帰って来ない気がしたから」
「……なにそれ」
「なんとなくそう思っただけ」

 嫌な勘だけは当たるんだよ。そう言った京治くんの顔はとても悲しそうで、わたしはなんと答えたらいいのか分からなくなった。半分スペースを開けたベッドにもぐりこんだ彼は、いつもと違ってこちらを向いている。何か答えないと。そう思うけれど、こんな夜にぴったりの言葉を、わたしは持ち合わせていなかった。多分、本当に変わってしまったのは彼の方ではなく、わたしの方だ。京治くんはあの頃からなにも変わっていない。わたしが、余計なものばかりを通して彼を見てしまっただけだ。

「帰ってこなかったら、京治くんはどうする?」
「……どうもしないよ、別に」
「……薄情」
「いつも通り飯食って、洗濯して、仕事して、寝る」
「……」
「でも、ずっと待ってると思う、智香のこと」

 わたしが何回言っても靴下洗濯機に入れないくせに。せっかく合わせた休みを忘れてバレーの観戦に行っちゃうくせに。すぐ寝るよって言って朝まで仕事してるくせに。その夜、わたしが泣きそうになってることなんて知らないくせに。わたしのこと、なんにも知らないくせに。なのに、どうして、わたしのいちばん欲しい言葉が分かるんだろう。

「……京治くん」
「ん?」
「うまくいくかな、わたしたち」

 思っていたより大きな京治くんの手が、わたしの頭を撫でた。こんなことをされたのは初めてだったから、わたしはなんだか恥ずかしくなって、すぐに俯いてしまう。「心配しなくていいよ」そう言った京治くんのやさしい声を聞きながら、温かい腕の中で再び眠りにつく、午前4時。