クローズド



 別れたんですか、と聞くと、彼はなにも言わずに台所の蛇口を捻った。
 将来に夢も希望も持たない人間ですら、ただなんとなく大学生になる時代だ。実沢さんはそういった昨今の風潮に流された若者の一人であった。そしてかくいう俺も、なんの目標もなく日々を過ごす大学生だった。実沢さんは薬学部のひとだった。とりあえずは手に職つけて、なんて安易な考えで受験したそこは六年制だ。他の学部の学生たちが就職活動のクライマックスでてんやわんやな今日この頃、どうやら大学院にまで進むつもりらしい実沢さんの暢気は、俺ですら辟易するようなレベルに達している。

 人見知りが激しいゆえに無口。少々日本人離れの進んだ容姿もあいまって、実沢さんはおよそ凡人であれば近寄りがたいだろう雰囲気を持っていた。俺だって、木兎さんが、高校の時よくしてもらったのだなんて紹介をしてくれなかったら、人生において関わりたくもない人種に、彼をすっかりカテゴライズしていただろう。
 しかし親しくなってみればとても面倒見の良いひとである。実沢さんのやさしさはとても魅力的だ。そのことに気づく女性もまれに、ごくまれに、いらっしゃる。だから時折実沢さんには彼女がいたけれども、数カ月が経ち彼のだらしなさ、彼の持つフィロソフィーなどを理解した女たちは、静々と彼から離れてゆく。実沢さんは世間一般の大学生と同じように女が好きだった。とはいえその女が彼に長期間は寄りつこうとしないのだから、このひとは容姿や人柄に恵まれているのに対し、人間関係にはあまり恵まれていないらしい。

 講義が終わるのがちょうど同じような時間で(そんな情報を実沢さんがどこから手に入れたのか見当もつかないが)、彼は俺にメールを寄越した。うちへ来ないかというメールだった。俺は実沢さんとは違ってそこまで友達には困らない人種だ、しかし彼の誘いを断るほど愚かでもない。
俺は世間一般の大学生とは異なって、実沢さんのことが好きだった。

「別れたんですか」
「うん」

 地方から出てきて一人暮らしをしている実沢さんの部屋は、いつ来てもどこか薄暗い。彼は食卓の俺に背を向けている。彼の背中には別段寂しげな空気もない。勢いよく流れ出る流水で、昼食に振る舞ってくれた麻婆豆腐乗せ炒飯の皿を、すごく淡々と洗い流していた。実沢さんにとって女性とはその程度のもの。頬を撫でるそよ風。流れて排水口へ消える水道水。傍らに誰がいようといまいと、実沢さんは実沢さんであって、彼は彼以外にはなれない。

「なんでですか、それなりに美人だったのに」
「俺、べつに好きくなかったし」
「断らないんですか?」
「断れたら苦労しねえべ、でもそんなの赤葦だって」

 実沢さんはそう言うと、首から上だけをこちらにくれた。くちびるの端だけをつりあげた笑い方は彼の癖だ。
 たしかに俺は優柔不断で、多少なりとも女性に好かれていることは自覚できていた。けれども交際を断ることができたことなんて一度もない。好きです、なんて言われるたびにああこの人ならば今度こそ、と頷いてしまう。なにを夢見ているのか。

「じゃあ俺と付き合ってください」
「なに言ってんのお前」
「……、冗談です」

 心臓を握りつぶされるような嘘だ、あらん限りの力で笑い声を上げて、ふいと視線を戻した気まぐれな背中に言う。冗談ですってば。冗談ですってば。勇気を振り絞りひといきに開けた異常の引き出しを、俺はそっと閉めた。シンクの上にある窓からは唯一光が差し込んでいる。シンと静まり返った空気の原因に気がついた。「カーテン開けてもいいですか?」実沢さんは突然なんなの、と笑った。俺は立ち上がって、ベランダへ続くカーテンを勢いよく開いた。「うわ、」外で燦々と降り注ぐ日光が目に痛い。ぐっと瞼を閉じてみても、俺の視界は赤く焦げ付いている。
 実沢さんはなにに動じることもなくゆっくりと蛇口を閉じた。布巾を手にとる姿すらまぶしい。彼の仄明るく輝いて見えた姿は、日光にやられた目のせいだけではないだろう。

「そんな冗談やめろよ」

 実沢さんは笑った。俺はそよ風で、水道水であった。