なんだって知っている



 だってあれは死んでしまっているかもしれない。
 光が驚くほどの速さで伝わるのは知っていたけれども、その彼らでもってしても私たちに到達するには何百年とかかるらしい。それほどまでに遠く、大気圏などを突き抜けた真っ暗な、なにもないがらんどうの先にある星たちについて想像することは、決して容易くはなかった。知識の応用とはこうも難しいものかとこころの中でひとつため息を吐いて、私は四つ目のプルタブを起こす。
 つまるところ、この地球から見上げたちいさな星から届く光は、ずっとずっと前のものだという。たった今が微笑みかけた夜空の星たちは、途方もなく広い宇宙空間をひたすらに、私たちの想像のまったく及ばない長いあいだ飛び続けてきた光だった。だから何千年も前から輝いていただろう彼らのうちいくつかは、光を放ったきりすでにこと切れていたってなにもおかしくはない。死人になにを願うというのか。平生ロマンチストのきらいがある私ですら興味を失うくらいに現実的な話だ。


「なに?」
「今、何を考えていましたか?」
「んふふ、ひみつ」

 そう言ってはふいと窓から視線を外し、私と同じように二個目のプルタブを起こした。そして私の前に整列する三つの空き缶を指差す。

「げんたろ、カレー辛いでしょ」
「ええ、口の中に剣山を入れているようです」

 辛い、とかいう言葉で表現できる可愛らしい次元ではなくもはや鮮烈な痛みを感じるレベルであった。これでは翌朝のトイレも悲惨なことになるかもしれない。ひりひりと痺れる舌を空気に晒して眉を寄せると、顔を綻ばせてけらけらと笑う。やさしいやさしいと評される彼女だけれども、小さじ一杯ほどのサディズムを隠し持っているのだ。
 夜ごはんはなにがいいかと訊かれたときに私がなんでもいいですよと答えてしまうと、は九割方カレーを作ろうと言う。料理下手なわけでは決してなく、またなんにでも醤油やらソースやらの調味料をぶっ掛けるような味覚の悪癖もないのだけれども、辛党の彼女が作るそれは、然程辛さに弱いわけではない私ですらほんとうに火を噴くのではないかというほど、ばかみたいに辛い。そんな凶器じみたものを囲んで平和にお食事などできるわけもなく、だから包丁を携えて鍋を温めるが気を遣って「幻太郎は手伝わなくていいよ」と言ってきたとしても、私は必死の形相で「それはできない!」と言う。に料理を、特にカレーを作ることを任せてはならない。だって私の食卓が火の海と化してしまう。
 暖房の効いた部屋は乾燥していた。カレーの刺激を紛らわすために喉へ通したアルコールが心地よい。(今夜のカレー、小生が手伝ってもやはり暴力的な辛さであった。)は空になったアルミの缶を机に置くと、デコピンの要領を用いて指で弾く。かん、と間抜けに軽い音をたてて勢いづいたそれは一瞬倒れそうに傾いて、持ち直したかと思うと前後左右に落ち着きなく回った。

「げんたろーはなに考えてた?」

 かちかちとわずかに陶器と銀のスプーンがぶつかる音を立てながらカレーの皿をすっかり空にしたが私を見る。額に汗を滲ませながら黙々と咀嚼を続ける私がなにを考えているかだなんて、そんなもの、特筆するべきことではない。先日乱数が持ち込んだ女性向けのファッション誌に載っていた脚の長い読者モデルがそれなりに好みのプロポーションをしていただとか、の家にストックしてあるカレールウにせめて中辛を追加すべきではないかだとか、引き籠もりの自分は兎も角、身体資本で働いている人間がこんな食生活でいいのかだとか。……常に妙なことを考えていて、常人の思考回路とはまったく違うものを持ち、そしてさまざまなすばらしいものを生み出す、新進気鋭の作家であるの考えていること。何を考えていたと尋ねられた私が素直に答えたとしよう。けれどもそれは決して彼女の思考と比べられるような、崇高なものではないのだった。

「なぁんにも考えておりませんよ」

 だから小さじ一杯程のすこしくらいの嘘は、私が彼女と同じ場所に立ち、天秤を傾けさせないための錘として許される。に対して私の嘘はあまりにも薄っぺらく軽すぎた。まるでオブラートみたいに吹いたら飛んでいきそうな軽さ。「うそつき」まるでチェシャ猫のように目を眇めてが笑う。平生嘘つきのきらいがある私の考えていることは、すべてするっとまるっとお見通し。そんな某ドラマの主人公みたいなセリフを脳裏に浮かべながら、私は燃え上がりそうな口内をアルコールで鎮めた。

が秘密と言いましたので」
「わたしのせいなの?」

 そう。全部貴女のせい。

は何を考えていたんです?」
「ひみつって言ったじゃん。言わないとだめ?」
「駄目ですねえ」
「なんなのもお、絶対言わないし」

 ふにゃりと目尻を下げて笑った。ぶっとんだ発想を生み出す脳みそは彼女だけのもの。たとえどれだけ私が彼女の身体を好きに弄び、この耳に彼女の嬌声を焼き付けたとしても、そのパンドラの匣めいたものを開けることは絶対に許されない、絶対に。
 は二本目の缶を勢いよく呷って、空になったそれを勢いよくテーブルに叩きつける。かん、とまるで中身のない間抜けた音がした。

「たとえばわたしが、げんたろーのこと、っていったらよろこぶ?」

 微笑むの瞳の奥に潜む色はサディストのそれだ。酔いが回っているらしい、僅かに舌足らずな口吻でも瞳の鋭さはちっとも損なわれていない。それでもそりゃあ、私は喜びますよ。貴女と違ってびっくりするほど単純だから。往々にして、男という生き物は単純なものなのだ。

「小生はのことを考えていましたよ」
「なんにも考えてないって言ったのに」

 そんなんずるいよ。乾いた笑いを響かせて、その次の瞬間、彼女はまるで魔法使いのような目をした。驚くほどにすばやい光でもって私の瞳孔を貫いてゆく。

「幻太郎」
「なんです?」
「あの星はまだ死んでない」

 彼女の瞬きが生んだ光は宇宙空間さえ貫いただろう。何億光年か離れた星がひとつ爆発して、私の脳みそをひどく照らした。