幻想的アブラカタブラ



 翼が欲しい。空を飛べるような翼が欲しい、空が飛びたい、なんにも考えないでふぅわりと。烏もいいかもしれない。黒い翼で空を舞う、この世界はきたないから食べるものにも困らない、死ぬまで適当に飛んで適当に食べて適当に繁殖して、死んで。わたしは烏を見るたびに烏になりたいなあと思う。けれども、人魚みたいに水の中でも息が出来て見目麗しく純粋でうつくしくて博学な、そんな生き物にも憧れる。わたしはそんなことをぽつりぽつりと考えていた。気がついたらわたしは粘土みたいに誰かに捏ね繰り回されていた。わたしの憧れているなにかになれるんじゃないか、と捏ね繰り回されながらわたしは考えていた。しかし捏ね繰り回されている途中のわたしの姿はきっととても見れたものではなかっただろう、もしかしたら『ノートルダム・ド・パリ』のカジモドやエレファント・マンのようになっていたかもしれない。まるっきりぐちゃぐちゃになって、手も足もなにもかもが同一でまあるくてやわらかいものになった。わたしはふにゃふにゃな視界の中で未来がきらりと光るのを見た。
 ずぶりと足が引っ張られるような感覚がして、わたしの目は一気に覚ました。のそのそと緩慢な動きで起き上がると、わたしの左足はベッドから落ちていた。夢を、見ていたような気がする。なりたいものになれていた気がする。わたしは気がついたらぐんと小さくなって烏になっていて、空を飛んでいて、怯える人間を黒いびぃどろ玉か釦みたいな目で馬鹿にしていた。その後には人魚姫になって海中をなめらかに泳いでいた。魚もわたしを見て逃げたりしない、ふうと息を吐き出すとあぶくが地上に向かって上がっていって、水面に届く前にぱちんと弾けるのが下から見えた。わたしはそんな夢を見ていたような気がする。

「それでは、は結局何になりたかったんですか?」
「わたしは、わたしは、なんだろうね?」
「泡を見て、そうしたら陸に憧れて王子様に恋して終わりでしょう」
「幻太郎はロマンチストだね」
「ええまぁ、否定しませんけれど、あなたの頭も大分ロマンチック、というかメルヘンちっくですよ、
「わたしがメルヘン、なんて非常にざんねんだね」

 わたしと幻太郎はソファの真ん中でお互いがお互いを支えるみたいにぴったりくっついて座っていた。わたしは両手でマグカップを持っていて、そこにはほこほこと白い湯気を立てる大好きなコーヒーが入っている、もちろんブラック。少し舌がぴりぴりするくらい苦いほうが、目が冴えてすっきりするから大好きだった。脱稿明けで数日ぶりの入浴から上がったばかりの幻太郎は肩にフェイスタオルをかけたままソファの肘置きに携帯を置いていて、帝統から金を貸してくれだの今晩泊めてくれだのというメールでも来ているのか、時折思いついたように手にとってはすいすいと画面に指を滑らせて弄ったりしているけれど、概ねはわたしの夢の話を聞いてくれている。まだわたしの頭の中で、海越しにみた太陽がきらめいていた。あぶくがわたしの上で弾けた。ぱちり、と。夢の中の記憶は次第に曖昧になっていくから、もう一度同じような夢を見てみたいと思う。
 今度はディズニーシーのミュージカルでアリエルがやっていたような、海に沈むお宝の入った豪奢な箱を開けてみたい。海の中で見る金銀財宝は果たしてどんなふうにわたしの目に映るのだろう。それらの景色を全部ぜんぶ一切合切わたしの瞳の中に集めて、ぐっと顔を寄せ合ったら或いは幻太郎にも見えるんじゃないだろうか。そんな空想に過ぎない無理矢理な手を使わずとも、わたしの夢をどうにか幻太郎にも見せてあげたかった。どうしたって人が見る夢は共有できないから困る。夢は幻影やまほろばや亡霊なんかよりもずっとずっと不確かだ。なにか、テレビとゲーム機を接続するような方法でわたしと幻太郎を線で繋いで、一緒の夢を見てみたい。オペラ座の怪人のようなどこかホラーめいた怖い夢も、気がついたら泣いてしまっているような悲しい夢も、いっそこのまま目覚めなくたっていいと思ってしまうような素敵な夢も、すべて。一緒にびくりと目が覚めて、怖かったねと笑い合ったり、幻太郎が、或いはわたしが、泣いている相手の涙をそっと人差し指で拭うことが出来たとしたら、それはとてもとても素敵なことだ。ふかふかの大きいベッドで寝なくても、狭くて腰が痛くて身体の向きを変えるだけでぎしぎし唸るようなベッドでも、一緒の夢を見られるのならば別にわたしはなんだって良いと思う。

「次に幻太郎が来る時はこたつ出しとくね」
「もうそんな時期ですか、」
「そうだよ、こたつ出しちゃったら幻太郎が家から出れなくなるよ」
「それでは、小生はみかんでも持って来ますかね」
「わたしがお茶入れてあげる。ほうじ茶でも緑茶でもなんでもリクエストしていいから」

 わたしがそう言うと幻太郎がふふんと笑って「小生はさんぴん茶がいいですね」なんて本気なんだか嘘なんだかわからない顔でそんなことを嘯くので、わたしも「みかんにジャスミン茶は合うと思うよ」と笑ってあげた。そうすると途端にみかんが食べたくなってきてしまった。特有の酸味や粒々とした果肉感がやけに愛しく恋しく思えてくる。思い立ったが吉日と言わんばかりにそのまま幻太郎に「みかん食べたい」と言うと幻太郎はなにも言わなかったけれど、単純だなあと思っているような瞳の色で立ち上がって玄関まで向かった。都合が良いことにわたしの家はスーパーに近い。急いで追いかけた所為で片足脱げたスリッパも廊下に置き去りにして彼の背中を追う。裸足になってフローリングに触れる右足だけがいやに冷たかった。そういえば先程まで持っていたマグカップをどこに置いただろうか、とすぐには思い出せなかったけれど、反射的にソファーの前のテーブルに置いたことだろうと思い直した。きっとそうだろう。幻太郎が靴を履きながら催促するようにわたしを呼ぶ。冷たい右足がやけにかわいそうでかわいかった。
 わたしも幻太郎の後を追うように靴を履いて、下駄箱の上に置いている玄関の鍵を掴んだ。外の冷たさに思わず目を瞑る。幻太郎がわたしの代わりに家の鍵をかけた。ばいばい、わたしの家。そう心の中で呟きながら小さく手を振って、わたしはみかんを買うべく幻太郎の隣に並んで歩き出した。