track.10



 街中で彼女を見かけたとき、恐らく隣にいるのは彼氏ではないんだろうな、とは思った。長いとは言い切れないけれど決して短くはない付き合いで、良くも悪くもさんの性格は人並み以上に把握していて、彼氏がいるのに俺との関係の修復に揺らぐような、そんな器用なひとではないこともわかっていた。けれど、あの場で訊くことだってできたはずなのに早足で立ち去ってしまったのは、どこか焦っていたからに他ならなかった。
 俺にはもう関係のないことだ、と割り切るのは容易ではなかった。脇を通り過ぎて少し歩いてからやっぱりどうしても気になって振り返ってみたけれど、そこにはさっきまでいたはずの彼女の姿はなくて。あのまま二人が連れ添ってホテルにでも消えていっていたらどうしよう、と今の俺にそんな懸念を抱く資格などないというのにどうしようもなく不安になってしまって、気づけば自宅の最寄り方面に向かうそれとは反対方向の電車に乗っていた。
 どうして今更、こんなに必死になっているんだろう。自分でも衝動の要因はよくわからなかった。あの日、酔い潰れた彼女を見つけた日から、二年前にタイムスリップしたような感覚をおぼえるときがたまにある。あの頃に戻れるのなら、いや、特に積極的に戻りたいと思っているわけではないのだけれど、もしもあの頃、あのとき、十七歳であったこの身体をこの心で操ることができたならば、俺は彼女に告げられた別れを頑なに拒んだことだろう。
 さんの家まで来たものの合鍵を持っているわけでもないし連絡などできるわけもなく、結局はどうすることもできず玄関前に座り込むだけ。これ大家さんとかお隣さんとかに見られたら不審者だと思われるかもな、さんがあの男と帰ってきたらどうしよう、いや、そもそも帰ってこなかったら……。あのとき、声をかけておけばよかった、なんて今更後悔したってもう後の祭り過ぎてどうしようもない。思いつきだけで行動して後悔することなんて今までの人生で幾度となく経験してきたことだけれど、心臓を押し潰すような不安と呼吸の苦しさには一向に慣れやしない。湿った生温い風に吹かれて、どんどん沈んでゆく俺の気持ちを掬い上げてくれたのは他でもないさんで、彼女がひとりで現れたことに、ひどく安堵したのは紛れもない事実だった。
 意図的に終電を逃した俺は、隣でテレビをぼんやりと眺めているその横顔を見つめる。ああ、なんて可愛いんだろう。ほんとうに、心も身体もなにもかもが十七歳の頃に戻ったかのようにそわそわとしてしまう。毎日毎日、飽きもしないで彼女の可憐さにじたばたしていたあの頃と、この心はなにひとつ変わっていなかった。彼女を知らない二年の歳月など一瞬で薙ぎ払うかのように、心ははしたなく浮き立ってしまう。自分の口元が自然と緩んでいることに気づいて、手を伸ばせばすぐに触れられる距離に彼女がいることに、なんとも形容しがたい幸福を得た気持ちになった。

 久しぶりに再会したあの日。指輪を置いていったのはわざとだと告げたなら、さんはどんな顔をするだろう。
 もう既に気づいているだろうか。それともさんのことだから、本当に忘れていったと思ってるのかもしれない。確かに、付き合っていたときもよく物を失くして探すのに付き合ってもらっていたっけ。自分の左手に鈍く光る指輪を外してさんの目の前に翳せば、あっ、と目を丸くして声を上げた。

「この間の指輪?」
「そうそう」
「きれいだね」

 目を細めて、まるで春の木漏れ日のようにやわらかく笑みを浮かべるさん。その一言に、言葉以上の特別な感情が込められてることは訊かずとも充分わかった。俺にとっても、さんにとっても、この指輪は、きっと、すごく大切なものなのだと。
 別れてからも、ずっとずっと、頭から離れることはなかった。過去に縋るなんて女々しくてらしくない、と何度自分に言い聞かせても、一緒に過ごした心地良い日々を、尊い思い出で片付けて無碍にすることなんてできなかった。だからこそ、ちいさく解れてゆく日常に向き合うことができなかったんだと思う。
 すこし赤くなってしまった瞳で俺を見上げるさんの目尻を親指でそっと撫でる。このひとの、子供みたいに稚気を含んだところだとか、それでいて母親のように俺をあたたかく包み込んでくれるところだとか、きっと、ずっと、すべてが好きなんだ。

「……わざとなんだ」
「うん?」
「これ、カバンの隣に置いてあっただろ」
「え、」
「最後にしたくなかったから。ズルくてごめん」

 さんは先程よりもいっそう目を丸くして驚いた様子を見せた。やっぱり、気づいてなかったのか。指輪の内側に刻まれた俺の名前を二人で覗き込むと、さんが、ひどく大切なものに触れるようにそうっと指輪の縁をなぞる。まるで俺の心まで撫でられたかのように、じわりと身体が震えた。

「……もう忘れなきゃだめだって思ってたけど、でもやっぱり、また会えるかな、って嬉しかった」

 その華奢な手ごと握れば、溶け合うような体温と鼓動まで伝わってきてなんだかくすぐったい。それでも、過去を恨んでも、歯がゆさに胸が痛んでも、やっとの思いで手にしたこの温もりを離す気には到底ならなかった。遠慮がちに肩へと凭れかかってくるさんの視線は、真っ直ぐテレビに向けられている。それが照れ隠しを意味していることなんて、前から知っていた。こうなると、俺と目を合わせるのをやたらと拒むから困ってしまう。そんなところもどうしようもなくかわいいのだけれど、でも。

「、なあ」

 うっすら赤く染まっているその頬に、そっとくちびるを寄せた。元々積極的になって欲しいと思っていたわけではないのだから、彼女は変わらないままでも構わない。変わっていく景色もあれば変わらない想いだってあって、変わることだって、もう怖くはない。
 この心で、この身体で、彼女とこの世界で生きていく。

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