track.9



「さっき一緒にいたひとって、」
「え?ああ、同期だよ」
「付き合ってるんですか?」

 えっ、と目を剥いて隣に座っている一郎くんに顔を向ける。どうしてそんな発想になったのだろう。なんで今そんな質問をするのかよくわからなくて、「そんなわけないよ」と僅かに引き攣る頬を無視して笑って返したけれど、彼の憂いを帯びた伏し目がちな表情が変わることはない。
 沈黙の降りたぎこちない空気に耐えられなくて、気を紛らわせるためにテレビでも点けようとテーブルの上に放り出したリモコンに手を伸ばしたけれども、一郎くんの声がそれを遮った。

「終電までに帰ってこなかったら、もうさんのこと追いかけるのやめようって思いました。……考えるだけで、嫌になりそうでしたけど」

 一郎くんの言葉を、頭の中でゆっくりと咀嚼するように噛み砕く。なにをどう曲解してもわたしにとって都合の良い解釈しか浮かばないのだけれども、でも、そんなことって。勘違いしてしまいそうな自分を諌めるように、自分のぶんのグラスに手を伸ばす。その場凌ぎに水を口にしたところで、心は波打つようにざわめき立ったままだ。目を合わせる勇気なんて到底持ち合わせていないのに、彼に名前を呼ばれてしまえば応えるように顔を向けてしまうのだから、もうどうしようもない。瞬きすらできず見開いたわたしの瞳に映る一郎くんは至って真剣な顔をしていて、その篤実を滲ませた表情に自分がどうしようもなく弱いこともよくわかっていたから、ひどく気が動転してしまう。

「俺、やっぱり、さんが好きです」

 わたしをじいっと見つめたまま、言葉のひとつひとつを噛み締めるように一郎くんが告げた。
 こうやって、面と向かって言われたのは二度目だなあ。すこしだけ霞んだ記憶の向こうに浮かんだのは、羞恥に耳を赤く染めた、いつかの彼の真っ直ぐな眼差し。あの頃の彼はもっと髪が短くて、学生服を着ていて、耳には赤いピアスがあった。全く期待していなかったと言えば嘘になる。けれども、これは、現実、なんだろうか。曖昧な境界線を確かめるように、タイムスリップのごとくぼんやりと一日の出来事を脳裏で辿る。飲み会から帰ったら一郎くんがいて、いまは部屋に一緒にいて、それで……。
 そうか、夢じゃないんだ。表面張力でふるふると揺れる水面に吐息を吹きかけたときのように、心の奥底に仕舞い込もうとしていた気持ちが途端にぶわりと溢れそうになる。

「わたしも、……、」

 ひどく情けないことに、引き攣れた喉を無理に使おうとしようものなら声を上げて泣き出してしまいそうで言葉が続けられない。浅く続ける呼吸は早く、心臓の動悸はいつまでも正常に戻らない。それに気付いたのか、一郎くんがちいさく笑う声がした。たったそれだけのことで、ぎゅうと胸の奥が撓るように苦しくなる。彼のことが、好きで、好きで、好きで、好きで、もう、どうしようもない。
 一郎くんに出会うまではずっと、愛だとか恋だとかそんなものはだらだらと流れていく日常にすこし色を添える程度の附属品でしかないと思っていた。ともすれば、安らかな生活を送るためには邪魔になるものだとも。かつては自分のことをどこか冷めている人間だと思っていたし、周囲にもさんざんそう評されてきた。けれども、一郎くんに出会ってからはそう思うこともなくなった。わたしのなかに、こんなにもたくさんの感情があったのだと気づかされたのは、一郎くんと出会ってからだ。

さん、すぐ泣くから」
「だって、いちろうくんが、……だめだ〜泣いちゃう」
「子供みたいだな」
「、一郎くんのが、大人かもね」
「や、それはないな。だって、……、あー、やっぱなんでもない、です」

 視線をうようよと泳がせて、頬を掻きながらそう言ったきり口を噤んでしまった一郎くんに首を傾げてみても、どこか楽しそうに笑うばかり。なんだかうまく丸め込まれてしまったような気もするけれど、まあ、いいか。また今度話すんで、と呟いたのがちょっとだけかわいくて、ふふっと口の端から笑い声が漏れる。なんで笑うんだよ、と僅かに拗ねたような口吻の一郎くんの手がそうっと頬に添えられた。そう言っている本人も笑っているのだから、説得力がまるでないのだけれども。

「あ、」
「どうしたの?」
さん、酔ってます?今」
「んー、ううん、今日はそんなに飲んでないし、言うほど酔ってないよ」
「……明日起きたら忘れてるとか、ナシですよ」
「一郎くんのことは忘れないよ」

 不意に零れた本音に、一郎くんはきょとりときれいな瞳を丸くした。付き合っているときだって、こんな言葉を口にしたことはなかった、かもしれない。彼との間に広がる距離の間に入り込む寂しさすらも愛しくて、愛されている実感はあれど安寧には程遠いけれども、今となってはなんの問題もない。ふと、彼の表情が緩んだ、と思ったら今度は急に口角を釣り上げた意地悪そうな笑みを浮かべて。

「俺がタクシーで送ったことは、覚えてないでしょ。この前の夜」
「……あの日はノーカウントで」
「わかりました。じゃあこれで許します」

 返事をする間もなく重ねられてしまった唇に、もう為す術なんてなかった。年下のくせに、悔しいけれどいつだって彼の方が一枚上手なのだ。こういうところ、乱数くんとか左馬刻くんに似たのだろうか、なんて言ったらきっと一郎くんは怒るのだろうから、言わないけれど。だいたい、許すって、なんとも上から目線な……と呆れにも諦念にも似て非なる気持ちを抱いてしまう。けれども、一郎くんが嬉しそうに笑っているから、まあ、これでいいんだろうな、なんて同じように笑ってしまうわたしは些か彼に甘すぎるのかもしれない。そういえば、寂雷さんにもあまり甘やかしすぎないように、って注意されたこともあったっけ。いつの間にか点けられていたテレビからは、日付を跨ぐお馴染みのニュースが流れている。あれ、もう終わる時間なんだ、と壁に掛けられた時計に視線を向けたところで、ふと気づく。ああもう、きっと、確信犯だ。

「……一郎くん、終電」
「逃しちゃいましたね」