track.8



 いつの間に雨が降ったんだろう。うっすらと濡れたコンクリートの地面が靴底と擦れてじゃりじゃりと音を立てている。いつもひとりで歩いている帰り道なのに、今日はなぜだか、一郎くんと一緒に歩いていたいつかの記憶が思い出された。先程彼の姿を目にしたからだろうか。まったくもって、未練がましい。
 せっかくわたしのために開いてくれた飲み会も、結局途中で抜けて帰ってきてしまった。というか、顔色悪いね、と半ば強引に帰されてしまった、の方が正しいのかもしれない。
 ほんの数時間前、すれ違ったときに見た一郎くんの顔が忘れられない。隣に並んでいた同期を一瞬見遣ってから、わたしに向けられたあの眼差し。一郎くんの表情に躊躇いや後ろめたさという類のものは微塵もなかったように思う。瞳の奥までは見えなかったからその視線に込められた感情の真意はわからなかったけれど、どこか責められている、ような気がした。
 違うんだよ、そうじゃないの、と咄嗟に飛びだしそうになった弁明の言葉。彼がどんな勘違いをしたにしろ、そんな言い訳をしたってなんの意味もないというのに。わたしの隣にいるのが、同僚でも、友達でも、彼氏でも、一郎くんには、全く関係のない話なのに。
 アルコールのせいだけではない重たい足を引きずりながら、アパートのエントランスを潜った。カバンの中に突っ込んだキーケースを探しながらふらふらと自分の部屋まで歩いて、顔を上げた、そのとき。
 わたしの部屋の前に、パーカーのフードを頭に被って座り込んでいる人影が視界に収まった。
 顔が見えなくても、それが誰かなんてすぐにわかった。さっきまで、今も、ずっと、わたしの頭の中を占めていたひと。それでも今ここに彼がいることが予想外すぎて、どうしたらいいのかなんてわからなかった。足が動かなくて立ち止まってしまった気配を感じたのか、顔を上げてこちらを向いた一郎くんの力強い瞳と視線がぶつかる。わたしが相当に戸惑いの表情をしていたのだろう、苦笑いを浮かべてゆっくりと立ち上がった彼は、おもむろに頭を下げた。

「あの、すいません」
「えっ?」
「何も言わずに家の前で待つとか、やっぱありえないよなって」
「いや、え、いつからいたの?なんで?」
「……一時間半くらいですかね」
「そんなに!?言ってくれればよかったのに……」

 思わずそんな言葉が零れたけれど、結局あの雨の日以来、お互い連絡を取ってはいなかったのだ。今更どう気軽に連絡などできようものか。お互いの間になんだか気まずい空気が流れる。一郎くんは「ですよね」と困ったように眉を下げてどこか自嘲するように口許を歪めて笑った。そしてパーカーの袖を捲っている自分の腕に触れて、爪を立てる。……うん?

「腕、どうしたの?」
「あー、結構蚊に刺されちゃって……」
「そうだよね!?とりあえず中入る?」
「本当、すいません」

 結局、また彼を部屋に上げてしまった。もう、こんなこともないだろうなあと思っていたけれど。それでも、どこか心の奥底で、すこしだけ、喜んでしまっている自分がいるのも事実で。自らの浅ましさを恥じ入る気持ちもあるけれど、やっぱり、引きずったままだなあ、なんて。

「痒いな……」
「確か鏡の隣の棚にムヒあるよ」
「借りてもいいですか?」
「うん、ごめんね」
「……いや、俺が悪いんで、」

 なんだかいつもより歯切れの悪い一郎くんのもごもごとした声を背中に受けながら冷蔵庫を開ける。ペットボトルのお水がストックされるようになったのも、一郎くんの影響だったなあ。付き合っていた頃はそれこそコーラのボトルが必ずストックされていたものだった。わたしはコーラを飲まないから、別れてからはめっきり水だけになってしまったのだけれども、買い物へ行くたびに赤いラベルのペットボトルを視界の端で探してしまう癖は未だに抜けていない。飲み物を出そうと彼がよく使っていたグラスを食器棚から探したところで、はっとする。わたしと一郎くんは、もう他人なのだ。それだけは意味を取り違えないようにしなければならない。ひとりで勝手に浮かれていた自分を戒めるように、いつもは使わない来客用のそれに手を伸ばした。どこかで線を引かなければいけない。自分が傷つかないためだけじゃなくて、彼のことも傷つけてしまわないための予防線。
 それでも、いつもより多めに注がれたグラスの水。出来ることならば少しでも長く一緒にいたい、そう思ってしまうのは、どこまでもわたしのエゴでしかない。そんなことはわかっていた。