track.2

「スミマセン。俺、さんの知り合いなんですけど」

　依頼の仕事が終わった帰り、ふらふらと寄り道をしながら帰っていたとき。いつもならば素通りする道で、不意に足が止まった。チェーンの居酒屋、店の前で座り込んでいる女の人になんだか見覚えのある気がして。胸がざわざわとして、じっとその姿を見つめていた。遠くから見ている俺に気づく様子はない。そのひとは、友達に急かされて漸く顔を上げた。
　その瞬間、は、と呼吸が止まる。
　ずっと、ずっと会いたいと思っていた。別れてからもなお、声が聴きたいと何度思ったことだろう。
　電話をかける勇気も出なくて、ラインをしようと迷って、久しぶり、なんて単語を打っては消して打っては消して、結局送ることはできなくて。返事が来なかったらどうしようだとか全く俺らしくないけれども、同じような夜を幾度となく繰り返して、気づけば二年が過ぎようとしていた。まったく未練たらしいったらない。なにもかも投げ出して、逃げ出して、放り出して、見て見ぬふりをしているくせにずるずるずるずる、自尊心を擦り減らしてまでいろんなものを、嗚咽を漏らしながら引きずっていた。連絡ひとつするのにもあんなに躊躇っていたというのに、いざ彼女を目の前にして俺の足は迷うことなく進んでいく。その姿を目にするのはおそろしいくらいに久しぶりだというのに記憶は鮮明なもので、すべてが一瞬にして蘇った。表情も声もにおいも、いつか、彼女を愛しく思った感情も。

「さん」

　声をかけても彼女は俯いたまま返事はない。目線を合わせるようにしゃがみこんで顔を覗き込めば、ゆるゆると上げられた顔と視線がぶつかった、ような気がした。けれどその目は完全に据わっている。悪酔いしているにしてもこれは酷い。どれだけ飲んだというのだろう。付き合っている時は、こんなさん見たことなかったな。そう考えて不謹慎にも笑ってしまいそうになるのを、ぐっと奥歯を噛むことで堪える。マスクをしていてよかったと今以上に思うことはきっとないだろう。

「帰ろう」

　手を差し伸べる。無視されたらどうしよう、拒絶されたらどうしよう、と一瞬思ったけれど、そんなことはこの際どうでもよかった。それでも、応えるように握り返してくれた手が、二年越しに触れたその温度が、どうしようもなく嬉しくて堪らなかった。
　かつて彼女から別れを告げられた時、文字通り荒れに荒れた俺はさんざん自分を可哀想だと謗って、さんざん自分を可哀想だと可愛がった。チームを失くして、彼女を失くして、全てを失った気になって、それでも続く呼吸を不思議に思いながら、こんなふうにして生きているところを彼女にも弟たちにも見られたくないと背中を丸めて小さくなりながら、可哀想な自分を甘やかしてやった。それから俺や弟たちを取り巻く環境は大きく変わりを見せたけれど、自分自身の変化に於いてはなにぶん自覚がないからわからない。失ったものものと同等に手にしたものだって決して少なくはない筈なのに、いつも何かが足りないような気がしていた。あれから俺は、何か変わっただろうか。
　繋いだ手とは逆の空いている手で、肘あたりを強すぎない程度の力で掴んで引っ張り上げてどうにか立ち上がらせた。タクシーを拾おうと道路に目を遣ったとき、俺のことを怪訝そうな顔をして不審そうに見ているさんの友達に気づく。忘れてた。そりゃそうか。

「俺、送って帰ります。最寄りって東シンジュクのままですよね？脇道入ってコンビニの裏手にあるアパートの３階」
「そう、だけど……知り合いなの？ほんとに？」
「はい、大丈夫です。送ったらすぐ帰るんで」

　丁度来たタクシーを停めるとさんを後部座席に乗せた。一度周囲を確認して、続いて乗り込む。静かな車内に、俺の心臓の音だけが響いてるようだった。変わり映えのない窓の外なんて目もくれず、俺の肩に凭れて暢気にも眠るその横顔を、ずっと眺めていた。このままずっとどこにも着かなければいいのに、なんて、バカげた妄想めいたことすら本気で思った。
　さんの家に着いてからはまるで呆気なかった。無意識下にでも身体へ刻まれた行動なのか、ふらふらと覚束ない足取りと緩慢な動きで着替えるとベッドに倒れ込むさん。服は着替えてもアクセサリーは付けたままなのだから全くもって詰めが甘い。時計とネックレスをそうっと外して、記憶に残っているいつもの場所へとそれらを戻した。二年も経っているというのに前と何ひとつとして変わっていない部屋。まだ、憶えている。捨てたものが、捨てたくせに未だ恋焦がれるものが、あの愛しき日々が、手が届きそうなほどありありと蘇る。そして同時に思い知るのは、なにもかもを捨てたつもりでいたくせに結局のところ捨てきれていない、中途半端で幼い自分の孤独だった。
　そっとさんの身体を揺すってみても、微かに寝息が聞こえるだけで一向に起きる気配はない。けれども、これでいいのかもしれない。今起きたところで、どんな言葉をかければいいのか、正解なんて到底わからなかった。思わずまじまじと見てしまいそうになる寝顔から逸らすように視線を落とせば、床に散らかったくしゃくしゃのシャツ。いつもはしっかりハンガーに掛けて翌日に洗濯しているけれども、酔った日は決まってこうなってしまうのだと以前に言っていたことを思い出す。それを無意識のうちに畳んでいる俺は果たしてずるい男だろうか。些か打算的すぎるかもしれない。けれども、ただ、気づいてくれたらいい、と思った。
　畳み直したシャツをそっと置いて腕時計を見れば、ギリギリ終電に間に合いそうな時間だった。ずっとここにいるわけにもいかない。立ち上がる直前、不意に思い至って左手の中指に着けている指輪を外すとさんのカバンの傍に置いた。さすがに、わざとらしすぎたかもしれない。偶然を装うにしてはあまりにも出来すぎていて、端から見れば未練たらしく滑稽極まりなかった。けれども、まだ、どうしても。
　靴を履く前に一度だけ振り返って、それからは足早に部屋を出た。ぽつりと部屋に残されたあの指輪に刻まれた俺の名前に気付いた時、さんは一体何を思うだろう。

←　→