track.1
ふと目が覚めると、いつもより太陽の光が眩しかった。ちらりと横目に見た遮光カーテンの向こうはすっかり日が昇っていて、寝すぎたなあ、とぼんやり思いながら枕元の時計を見ようと寝返りを打ったわたしを襲ったのは、ずきずきと脳を刺すような鈍い頭痛。この頭痛はおそらく二日酔いからくるものだった。
ええと、そうだ、昨日は花金だったからパーッと飲もうって同僚と盛り上がって、それで……。飲み始め以降の記憶が全然ないけれど、記憶がなくなるくらいに酔ってしまっていてもきちんと家まで無事に辿り着けた自分を褒めてあげたい。そんなバカみたいなことを考えながら水を求めて台所へ向かおうとのそりと身体を起こしたけれど、ベッドの下、軽く畳まれたシャツが目に入った途端、えっ、と思考と動きとが一気に止まった。
酔って帰った日、わたしは、絶対に、こんなことをしない。
誰かと一緒に帰ってきたんだろうか?誰かって、誰?辺りを見回しても部屋にはわたしだけ。通帳と印鑑を仕舞っている引き出しを確認したけれども、触られた形跡は見当たらない。恐るおそる玄関を見に行っても靴は脱ぎ捨てられているわけでもなくきちんと揃えて置いてあって、ドアポストを開けると部屋の鍵が入っていた。そして、いつもなら脱いだ服をその辺にまとめて置いておくだけなのに、ネックレスも、時計も、いつもの片付けるべき場所にちゃんと戻してある。やっぱり、おかしい。
どういうことなんだろう。痛む頭を捻りながらうんうんと唸ってみてもうまく思考が回らないのもあってか一向に見当がつかなくて、最終的には昨日一緒だった友達に訊いてみよう、と思い至ってスマートフォンを探した。床に置かれたカバンは倒れて財布やらポーチやら中身が半分飛び出している。見慣れたスマホケースをカバンから引っ張りだそうとしたとき、ちかり、と傍でなにかが光った。コンタクトが貼り付いて乾いた目をぱちぱちと瞬かせれば、そこに転がっていたのは綺麗なシルバーリングだった。……わたしのもの、じゃない、ていうか、これ、男物な気がする。瞬間、さっと全身の血の気が引くのがわかった。
誰に聞くのが手っ取り早いんだろう、とスマートフォンの通話アプリを開きながら一瞬考えを巡らせて、仲良しの友人であるアイちゃんの名前をタップした。彼女は比較的お酒に強いから、きっと、昨日のことも覚えているはずだ。
「もしもし、アイちゃん?」
『!昨日大丈夫だった!?』
「昨日?昨日やっぱりヤバかったよね!?わたしひとりで帰ってた!?」
『いや、それがさ……』
躊躇いがちになにかを思い出すように話し出すアイちゃん。案の定というかなんというか、わたしはなにかをしでかしたらしい。記憶を失くすほど飲んで騒いで好き勝手に振舞う大人ほど馬鹿げたものはないと軽蔑していたというのに、昨晩のわたしときたら記憶を失くすほどに飲んで騒いで好き勝手に振舞っていたかもしれない。少なくとも、記憶を失くすほどに飲んではいる。この頭痛が証明だ。その晒したかもしれない醜態を聞き逃さんと耳元に神経を研ぎ澄ませた。
『珍しく潰れてお店の前に座り込んじゃってさー、みんなで引きずろうとしてたの。そしたら、若い男の子がコッチの様子ずっと見ててさ。スイマセン、って声かけてきたから誰だろう?って思ったら、あんたの知り合いですとか言ってて。俺がタクシーで送ってきます、って言われたんだけど、危ないじゃんさすがに。でもの名前も最寄りも知っててさ、こっちはどうしようって悩んでたんだけど、ちょうどタクシー来ちゃって、結局そのまま』
若い男の子。そう言われて、いちばんに脳裏に浮かんだのは元彼だった。どくりどくり、冷え切った身体に響き渡るように、心臓が大きく音を立てているのが、自分でもわかる。
「……、えっ、名前とか、聞いた?」
『わかんないの、聞きそびれちゃって。でもその後、やっぱりヤバいよね大丈夫かなってみんなで言ってたから。ごめんね』
「そっか……、家には帰れてたしなにもないと思うよ、全然大丈夫。こっちこそごめんね、ありがとう」
じゃあね、と電話を切ろうとしたけれど。やっぱり気になって、あのさ、と慌てて付け加えるように話を続けた。
「そのひと、どんなひとだったか憶えてる?」
『んー、なんかオシャレな感じでパーカーとジャケット着てたかなあ。キャップ被ってて……、あとこんな時期にマスクもしてたよ。ハタチくらいかなあ。もしかして元彼?年下だったっけ?』
「、いや、わかんない……、でも知り合いだと思う。ごめんね朝早くから、ありがとうね」
『いえいえー』
通話の終了を示す画面に滑らせた指は、微かに震えていた。アイちゃんはあまりテレビやネットを見ない子だから、所謂芸能人とかそういった類に弱いのは承知している。けれどもなんとなく、その人物に、心当たりはあった。わからないはずがない。どこか心の奥底で、そうであってほしい、と思っていた。
彼と別れてから二年近く、連絡は全く取っていない。つまるところそれはTDDが解散してからおよそ二年が経っていることと同義だった。どれだけ仲の良い友達にも、親にも誰にも、一度だって話したことはない。好きなのに、彼のことを一番支えてあげなくちゃいけない時期だったのに、荒んでしまっている彼と一緒にいるのが心苦しくなって、自分勝手な別れを切り出したあの日。避けて、無視をして、遠慮して。保身で頭がいっぱいになっていて、なによりも擁するべきものを忘れてしまっていた。大人になっても、いや大人になったからこそ、素直な気持ちで恋愛に向き合えずにいっそう臆病になるばかりだ。あの日以来、何度夢に見ただろう。
左手に握りしめたままだった指輪を眺める。内側に刻まれた、"Ichiro"の文字に気づいた瞬間、どうしようもなく泣きそうになってしまった。どうしようもなく、気持ち悪い大人だ。それでも。
期待が確信に変わる。思い出は綺麗なまま。それが嬉しいことのはずなのに、こんなに苦しいのは、どうしてだろう。
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