a cup of coffee
纏わりつくような空気と独特の匂いが鼻を擽る。雨が降りそうな空模様だ。交差点で信号が青に変わるのを待っていると、ふと道沿いに無造作に植えられた紫陽花が目に入った。その花びらに光る雫は、昼間も降っていた雨のものだろうか。湿った風が吹き抜けて薄紫色の花びらを揺らして、水滴がコンクリートの地面に向かって跳ねた。
今日は温かいコーヒーが飲みたい気分だなあ。そう思うと、足はもう既に家の方向とは反対へと向かっていた。待っていた信号を渡らずに、少し引き返す。
住宅街を通り抜けてしばらく歩くと、目先に茶色い建物が見えてきた。知らなければ見落としてしまいそうにこぢんまりとしたその建物の扉には、小さな看板がかけられている。自然な木目がきれいな茶色の看板に白いペンキで書かれたOPENの文字に安心して、曇りガラスの扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
途端に柔らかいコーヒーの香りが鼻先を擽って鼻腔に広がった。
「おや、久しぶりだね。仕事帰り?」
「うん。ホットコーヒーください」
今やすっかり顔馴染みになったマスターと軽く言葉を交わし、カウンターの左端から二番目の席に腰掛ける。
会社帰りに偶然この喫茶店を見つけたのは、新卒で入社しておよそ一ヶ月が経った頃だ。それから週に一度程度のペースで通い、もう丸一年以上経っている。常連客が殆どだというこの小さな喫茶店は落ち着いた雰囲気で、ここでホットコーヒーを飲むことが疲れた日のちょっとした贅沢になっていた。
「山田くん、彼女にホットコーヒー淹れてあげて。深煎りの豆で、ミルクを少し」
やまだくん。マスターが言う聞きなれない名前に顔を向けると、コーヒーミルの前に知らない男の人が立っていた。男の人というには綺麗すぎる顔立ちだけれど……と、思わず感嘆のため息が漏れそうになる。中性的な雰囲気のその人は、目が合うと、ふわ、とひどく綺麗な笑顔を見せた。
「新しいスタッフさんですか?」
「そう。この間から手伝ってくれてる、山田くん。山田くん、こちらは常連さんのさん」
「山田です。よろしくお願いします」
手際よく豆を挽きハンドドリップでコーヒーを淹れながら彼は微笑んだ。落ち着いているのにどこか少年っぽさを残した声の彼に軽く会釈をする。
「山田くんの淹れるコーヒーおいしいから、期待していいよ」
「マスター、プレッシャーかけないでくださいよ」
他愛無い軽口も、マスターに返事をする口調もその困ったような笑顔もひどく自然で、なんだか慣れてるなあという印象だ。人当たりもよくて要領もよさそうで、きっと彼のような人は人生うまくやっていけるんだろうな、なんて、偏見の塊でしかない考えを浮かべながら、コーヒーを淹れる山田くんをぼんやりと見つめていた。
どうぞ、とカウンターに置かれたコーヒーには、まだ溶けきっていないミルクがなめらかに白く渦を描いていた。湯気から香る芳しさを感じながら、ひとくち。
「あ、おいしい」
思わず、と漏れた言葉に、目の前の山田くんがにっこりと笑みを浮かべる。
「あー、よかった。さんは深いコーヒーが好きなんすね」
「うん。コーヒーに詳しいわけじゃないけど……、ここの深煎りのコーヒーが一番好き」
「俺もなんすよ。マスターが最初に淹れてくれたコーヒーが本当にうまくて、ここで働けたらいいなって頼み込んで雇ってもらいました」
「へえ、わたしここのお店にマスター以外のスタッフさんがいるの、初めて見ました」
「もう随分一人でやってたからねえ……、山田くん雇うのも迷ったんだけど、他にアテもないっていうから」
「拾ってもらいました」
ケラケラと笑い声を上げながら、山田くんは海外ドラマのような冗談めかした大袈裟な動作でもって肩を竦めた。どうやら、山田くんは最近この街に来たらしい。以前は何をしていたのか、どんなところにいたのか、そこまで訊く勇気はないけれど……、もっと知りたいな、なんて、そんな気持ちが密かに心に芽生えたのを、わたしはしっかりと自覚していた。
「そういえば、さんと山田くん、歳近いよね?というか、同い年?」
「え、そうなんですか?」
「なーにそのびっくりした顔は。どうせ、俺のこと年下だと思ってたんだろ」
だいたい実年齢より下に見られんだよなあ、なんて唇を尖らせて呟く山田くんがおかしくて、笑い声が込み上げてくる。ついに堪えきれずに噴き出すと、山田くんは、拗ねたような困ったような笑みを浮かべた。
「ごめん、年下だって思ってたわけじゃないんだけど」
「じゃあ何?」
「なんだろう、分かんないけど、なんだかおかしくって」
本当は拗ねる山田くんが可愛くって、なんて言ったらいよいよ本気で怒られてしまいそうな気がしたから、それは秘密にしておこう。そう思いながら、まだ尾を引く笑いを落ち着かせるために、山田くんが淹れてくれたコーヒーをもう一口飲んだ。
two cups
こうして、山田くんと初めて会った日からかれこれ三週間が経っている。あれからわたしは、これまでよりも頻度を上げて喫茶店に通うようになっていた。今日は山田くんいるのかな、また話せるといいな、なんて思いながら。
今日はいつもよりも早く会社から帰ることができて、定時で帰ることができると思った時から喫茶店のことが頭の中をちらついていて、気付くと口元が緩んで自然と笑みを浮かべてしまっていた。そんなどこか怪しい人間になりながらも仕事を終え、軽い足取りで帰路を辿る。いつもの通り、今日も変わらずOPENの看板だけがかかっている扉を開けると、聞こえてきたのは若い声。
「いらっしゃいませ。あ、さんだ」
「あれ、山田くん一人?」
喫茶店の中は、がらんとしていて普段よりも僅かに静かだった。あるのは店内に流れる音楽だけ。いつもはキッチンの中で作業をしているマスターも、今日は姿が見当たらない。
「マスターは今出てる。この時間はお客さん少ないから、俺だけでもなんとか任せてもらえてんだ」
「そうなんだ。なんか新鮮だね」
「まあな。注文どうする?いつもの?」
「うん、お願いします」
山田くんがここで働き始めてから一ヶ月程度しか経っていないというのに、もうお店を任せてもらえるなんて、山田くんの手際と要領の良さが伺える。わたしもそんな風になりたいなあ、とどこか羨ましく思いながら、コーヒーが出来上がるのをぼんやり待つ。
「はい、お待たせ」
「あれ?」
カウンターに並んだのは、湯気の立ち昇るコーヒーと、小さな器に置かれたアイスクリーム。細長いプラスチックに包まれたどこか懐かしさを覚えるアイスだ。子どもの頃に、友達と半分ずつ食べたことを思い出す。
「それはサービス」
「いいの?」
「おう。てか、毎日暑いからってマスターが買ってきてくれたやつなんだけど、半分やるよ。さん常連だから、特別な」
俺も久しぶりに食べたんだよなー、なんて笑いながら言う山田くんに、わたしも、と同意する。いつからか、山田くんはわたしのことを名前で呼ぶようになった。以前喫茶店に来た時に、「さんって、名前なんてーの?」「」「ふーん、ちゃんかあ」「山田くんは?」「俺はな、一郎」なんていう会話があったのだ。それからしばらく経って、喫茶店に来ると「ちゃん、いらっしゃい」と、当たり前のように呼ばれて驚いたことをよく覚えている。どうして急に、と気にはなったけれども、なんとなく触れられずに今に至っている。きっと、山田くんはすぐに人と距離を詰めて仲良くなれるひとなのだ。
「そういや、近所にチラシが貼ってあったんだけどさ、この辺で花火大会あんの?」
「うん、毎年やってるよ。規模も結構大きいの」
三週間後に開催される花火大会は、この町やその近隣の人なら誰でも知っている、そこそこ有名な花火大会だ。そういえば山田くんは、この町に来てからまだ日がそんなに経っていないことを思い出す。前はどんなことをしていたかだとかどこにいたのかだとか、気になることはたくさんあるけれど、どうにも深いところまで踏み込めないのだ。それは、わたしの性格のせいなのか山田くんの持つ独特の雰囲気のせいなのか。もし訊いても、うまくはぐらかされてしまいそうな気しかしないのだからお手上げだ。
「ちゃんは行ったことあんの?」
「んー、高校生の時に行ったっきりかなあ」
そう答えながら、頭の中には当時の思い出が甦る。中学生の頃は同性の友達と行ってはしゃいでばかりいた花火大会に、高校生の時に初めて好きな人と行った。一番仲の良かった友達と、好きな男の子とその友達の四人で。彼氏や彼女なんていう甘やかな関係性ではなかった。けれども、花火を見るよりも隣の男の子のことが気になってそわそわしていたなあ、なんて、甘酸っぱい思い出にふと頬が緩む。
「なんか、嬉しそうだなあ」
は、と我に返ると、山田くんはどこか微笑ましそうに目を細めて笑っていた。
「何思い出してた?」
「えー、ないしょ」
「絶対、彼氏と行ったなあ、みたいな顔じゃん!」
「ちがうよ」
付き合っていなかったのだから、嘘ではない。山田くんこそ、かわいい彼女と一緒にお祭りや花火に行っていそうなイメージだけど。そんなことを思いながら、教えろよと詰め寄ってくる山田くんに誤魔化すように笑いを浮かべる。
「教える気ないな。あ、じゃあ今年の花火大会は?彼氏と行くのか?」
「ううん、そもそも彼氏いないもん」
「へー、じゃあ俺連れてってくれよ」
いいだろ?と首を傾げる山田くんは、絶対に自分の顔の良さや愛想の良さを分かっている。確信犯だ、ずるい、こんなの断れるわけがない。心の中でぶつくさ呟きながら、カウンター越しに微笑む山田くんをじとっとした目で見つめる。
「まあ、マスターに休みもらえたらなんだけど」
「わ、わたしも仕事でどうなるかわかんないし……」
「タイミング合ったら行こうぜ。そのときは浴衣着てきてくれよ」
山田くんと花火大会。さっきの山田くんに文句は言ってみたものの、やっぱり嬉しさや楽しみの方が確実に上回ってしまっている。浴衣、新しいの買いに行こう。どんなのがいいかな。本当に叶うのかどうかはまだわからないのに、すでに心の中ではふわふわと期待に浮足立っている。あんまり期待しすぎちゃダメだと自分に言い聞かせて、話に夢中で溶けかけてしまったアイスを食べ始めた。
three cups
楽しいことがあった日と、落ち込むことがあった日、どちらかというと、後者にわたしはこの喫茶店に来ることが多いらしい。今日もいつものようにカウンター席に座って、ホットコーヒーを注文した。目の前でコーヒーを淹れてくれるのは、山田くんだ。今日もマスターは外に出ているようで、今この空間にいるのは山田くんと、わたしと、数人のお客さんだった。ふと視線を感じて顔を向けると、テーブル席にはわたしと同じくらいの年齢の女の子二人組が座っていた。彼女たちは、どうやらわたしの向かいにいる山田くんを見ているらしい。ちらちらと視線を飛ばしながら楽しそうに話す彼女たちは山田くんの話でもしているのだろうか。このご尊顔でいつでも笑顔で丁寧なんだから、お客さんの間で人気が出るのは当たり前だよなあと、そんなことをぼんやりと思った。
「なんかあった?」
「え?」
すると、いつの間にかコーヒーは出来上がっていて、山田くんがカウンターまで持ってきてくれていた。ありがとうとお礼を言って、早速カップに口をつける。僅かな苦味とミルクのまろやかさが咥内にふわりと広がって、少しほっとした気分になった。
「疲れた顔してるな。仕事忙しいのか?」
「うーん、まあ……」
わたしは一体どんな顔をしていたのだろう。確かに、今日は会社で落ち込むことがあったけれども、それをまったく知らない山田くんに見抜かれてしまうほどに暗い顔をしていたのだろうか。なんにもないよと笑顔を見せる気にはなれずに、うんうんと生返事を返すわたしの肩にそうっと山田くんの手が触れた。
「今日はこれ俺の奢り」
「え、悪いよそんなの」
「いいから。これ飲んで、ちょっとは元気になって」
明るい笑顔を見せて、さらに、話聞くくらいならできるぜ、なんて優しい言葉を言う山田くんにどうしようもなく甘えてしまいたくなって、湯気の立ち昇るコーヒーを華奢なシルバースプーンでなんとなくかき混ぜながら、わたしはいつもの世話話よりも控えめの小さな声で話を始めた。
「あの、独り言なんだけど」
「おう」
「今日、仕事でミスが重なっちゃって。たくさんの人に迷惑かけて。今までは、一年目だからって周りの人にも気にかけてもらえてたけど、いつまでもそういうわけにはいかないし、自分の力じゃなんにもできないんだなあって思って」
言い出せば止まらない自分への苛立ちや、後悔、不安。様々なマイナスの感情が溢れてきて、目頭が熱くなる。でも、ここは喫茶店だ。わたし以外のお客さんもいる。そんな場で泣くのはだめだと自分に言い聞かせて、必死に堪えた。こんな情けない愚痴を聞かせてしまって、山田くんにも申し訳なくなってしまう。
「……ごめんね」
「なんで謝るんだよ。独り言だろ?」
山田くんはおかしそうに、けれども、ひどく優しく笑う。あたたかく包み込む雰囲気だけれども、人の心の深いところへ無遠慮に踏み込みはしない。その線引きの上手さに、やっぱりモテるんだろうなあとぼんやり考える。この喫茶店に来るたくさんの女性客に囲まれて笑顔を見せる山田くんの姿が思い浮かんで、それを振り払うように、わたしは山田くんが淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
four cups
花火大会の日が近づいてきた。マスターに休みをもらえたら、と言っていたけれど、あれからどうなったのだろう。ぼんやりそう思いながら、喫茶店に向かう。お店に近づくと、お店の周りがなんだかいつもよりも賑やかに感じた。今日はお客さん多いのかな、忙しそうだったら帰ろうかな、そんなことを考えながら、お店の前に着く。すると、ちょうどドアが開き、三人組のお客さんが帰るところだった。あ、と、思わず声が漏れそうになる。若い女の子三人組を見送りに出ていたのは、山田くんだった。
「イケメンの店員さんがいるって噂になってたんですけど、本当来てよかったです!」
「またお待ちしてますね」
微妙に距離が近いように感じる女の子に笑顔で接する山田くん。その姿を見ると、心の中になんとも言い難いもやもやが降り積もっていく。山田くんはいつも誰にでも笑顔で話していて、接客は天職なんじゃないかと思うほど人に好かれる、おまけに顔は申し分ないかっこよさなんだから、"イケメンの店員さん"と騒がれるのは当たり前だろう。そんなことわかっていたはずなのに。
心のどこかで、わたしは山田くんにとって他のお客さんとは違う存在なのだと自惚れていた。そんなこと、あるはずがないというのに。たまたま、山田くんが来る前からこの喫茶店に足繁く通っていたというだけで、マスターと少し親しいというだけで、山田くんからもついでに常連扱いをしてもらえていただけに過ぎないというのに。言うなれば、今までのはただのリップサービスで、山田くんにとっては接客の一環でしかないのだと、現実を突き付けられた気分だった。
今日は、帰ろう。そう思って踵を返したのと、山田くんがわたしの姿を認めたのはほとんど同時だった。
「ちゃん!いらっしゃい」
にっこり笑う山田くんにどうにか笑みを返したけれども、表情筋は引き攣っていたに違いない。名前を呼ばれてしまっただけに無視をしてそのまま帰るわけにもいかず、帰路へと向きかけた足を再び喫茶店に戻した。
「なんか、忙しそうだね」
「んー、まあな。ここ最近、急にお客さん増えてさ。えっと、いつものカウンター空いてないんだけど、テーブルでもいいか?」
「うん」
「じゃあ、奥の席どうぞ。オーダーどうする?」
「ホットコーヒーお願いします」
了解、と笑う山田くんは、いつもの山田くんだ。その笑顔にほっとする反面、さっきの女の子たちに向ける笑顔となんの違いもないことをどこか心の底で残念に思った。
山田くんに案内されて店内に入ると、いつもは然程混み合うことのない喫茶店はほとんど満席状態だった。客層は圧倒的に若い女性が多い。地元のおじいちゃんやおばあちゃん、主婦、学生の憩いの場だった数ヶ月前とはどこか変わってしまったようだった。
空いていた奥の席はカウンターの様子がよく見える席で、くるくると忙しない様子で動き回るマスターと山田くんは、手際よく、けれど忙しい中でもお客さんとのコミュニケーションを忘れずに接客している。
「お待たせしました」
湯気の立つカップがテーブルに置かれる。コーヒーを持ってきてくれたのは、マスターだった。山田くんが来てからマスターはキッチン専門になったようで、ホールに立つ姿をとんと見たことがなかったから少し驚いてしまう。見れば、山田くんはドリンクの準備をしながら別のお客さんと話していて忙しそうだった。
「ありがとうございます」
「バタバタしててごめんね」
「ううん。お客さん、多いですね」
「口コミかSNSかで噂になってるんだって。嬉しいんだけど、こんなに大盛況なのは久しぶりだからなかなか感覚がつかめなくてねえ」
眉を下げて肩を竦めてみせながら笑うマスターに、そうなんですねと笑い返しながら、カウンターをちらりと見る。さっきの女の子が言っていたみたいに、山田くんのことが噂になっているんだろう。キッチンと対面になっているカウンター席に座る女の子が、山田くんとなにかを話して笑い合っている。今日は、もう山田くんと話せないだろうなと思ったわたしは、先にお会計お願いしますと、マスターにコーヒー1杯の値段ちょうどお金を渡した。
「連絡先、教えてください!」
「それはちょっと……、ごめんな」
そんなときに飛び込んできたこの会話に、思わず聞き耳を立てる。
「だめなんですか?」
「仕事中だから」
「じゃあ今日の営業が終わってからはどうです?なんならみんなでご飯でも行きましょうよ」
「んー、考えとく」
こんなときでも山田くんは、お客さんを邪険にさせない笑顔を見せる。その笑顔に女の子たちの歓声が上がるのを聞いて、わたしの口からは無意識に大きなため息が漏れた。もう、早く帰りたい。そう思った。これ以上、この空間で、山田くんと他の女の子が話している声や姿を目の当たりにするのは耐えられそうにない。
山田くんは、もしわたしが連絡先を聞いたとしたらどう返すのだろうか。もし食事に誘ったら。今の女の子に対するものと同じ返事をするのだろうか。……きっと、そうだろう。わたしに嫌な思いは絶対にさせないようにしながらも、うまくはぐらかすに違いない。そんなことを考えたら余計にもやもやした気持ちが膨らんで、心の中が嫌な感情でいっぱいになる。この気持ちが、嫉妬だということくらいは決して鋭くはないわたしにもわかっていた。
恋と呼ぶにはあまりにも不確かだけれども、山田くんのことが気になっていて、もっと仲良くなりたくて、だけど関わる手段はここに来るしかなくて、それ以上の勇気は出ない。そんな自分でも、いつかは"店員と客"とは違う関係になれるんじゃないかって、そんな淡い期待を抱いていた。だけど、そんなこと叶うはずがない。
コーヒーを飲み干して、足早に喫茶店を出た。後ろから山田くんの声が聞こえた気がしたけれど、振り向くことはせず、そのまま家への道を急いだ。
Last cup
その日から、喫茶店には行っていない。
約束していた花火大会の日はとっくに過ぎた。きっと、あれからもお店は忙しかっただろうし、どのみちお休みは貰えなかっただろうから行けなかったと思う。そもそも、山田くんにとっては覚えてもいない口約束なのかもしれないけれど。
ここのところ、休日に家に籠もっていても、山田くんのことばかりを考えてしまう。気分転換に買い物でもしようと思い至った。今日は好きなものを買おう、夏も仕事を頑張った自分へのご褒美だ、なんて、甘やかしながら家を出る。家を出て暫く歩くと、いつも喫茶店に行くときに曲がる交差点に着いた。ここを左に曲がってまっすぐ歩けば、あの曇りガラスの扉が見えるはずだ。
今日も、山田くんは働いているのだろうか。ふと、そんな疑問が脳裏を過ぎった。もう、いなくなってしまっていたりして。もしも山田くんが喫茶店を辞めるなら、その時は誰にもなにも言わず、まるで朝霧や蜃気楼のようにふわりと消えてしまいそうだなと思った。そんなことを考えながらも足は進んでいて、はっと気づいた時にはお店の前に立っていた。曇りガラスの向こう側に動く人影が薄く映る。シルエットからなんとなく、あれは山田くんだろうと感じた。お店に行かなくなって、もう一ヶ月が経とうとしている。夏も終わりに近づいた。出会った頃は梅雨の季節だったなあと、そんなことをぼんやりと思い出した。
そのままなにをするでもなく突っ立っていると、軽やかなベルの音と共に扉が開く。嫌な予感がして思わず逸らした顔を、恐る恐る扉に向けた。ずっと会いたくて、でも会いたくなかった、山田くんの大きな瞳がわたしを捉えている。一ヶ月前とほとんど変わっていないその姿に、少しだけ、安心した。だけど、面と向かって話すことはできなくて、咄嗟につま先を反転させて元来た道へ戻ろうとする。
「なんで逃げんの?」
困ったように眉を下げて笑う山田くんから、ふわりと香る甘い匂い。それが女物の香水の匂いなのは明白で、そしてなによりも真っ先にそれが気になってしまった自分にどうしようもなく呆れて、ぐっと目頭が熱くなる。
「なんで、そんな泣きそうな顔してんの」
口を開いたら、睫毛の手前でぷかぷかと浮いている涙まで一緒になって零れてしまいそうで、返事をすることさえ儘ならない。
山田くんのことが好きなんだって、たったそれだけのことなのに。伝えることもしないくせに、勝手に苦しくなったり悲しくなったり、そんな自分に耐えられなくて、いっそ離れて忘れてしまいたくなった。そんなぐちゃぐちゃした気持ちをどう言えばいいのかもわからなかった。
「ちゃん、……俺のせい?」
その悲しげな声には、頷くことも否定することもしなかった。面倒くさい女だと思われているかもしれない、こんな女は好きじゃないかもしれない。けれども山田くんは優しいから、こんなずるいわたしでも、決して無闇に突き放したりはしない。それがわかっているから、浅ましくどこまでも優しさに甘えてしまうのだった。
「山田くんのせい」
「……ごめん」
「……うそ。わたしのせい。勝手に、嬉しくなったり、落ち込んだりしてただけ」
こうやって痛々しい一人語りみたいに話すのは、降り注ぐ無言が怖いから。どこまでも意気地無い自分に嫌気が差した。真っ直ぐに目を見ることはできずに、気を抜くとうようよと泳ぎそうになる視線をぐっと留めて俯いたまま顔が上げられない。
「……そんな言い方されたら、俺、勘違いするじゃん。ちゃんが俺のこと好きで、不機嫌なのも、妬いてるからだって」
そんな時に山田くんが零した言葉は、突き放すようなものでもなんでもなく、わたしにとって全く予想していないものだった。それがどういう意味なのか、考えれば考えるほど自分の都合のいいように解釈してしまいそうになる。そして、ついには零れ落ちた雫。いよいよもってキャパシティオーバーなのかもしれない。これ以上、惑わさないでほしい。今よりもっと、好きになってしまうから。
「頼むから、泣くなよ。どうやって泣き止ませたらいいかわかんねえし、困るから」
そんなことを言いながら、ぐっと山田くんの影が近づいて、背中に腕が回される。まるで壊れ物を扱うみたいに恐るおそる触れられて、自分が至極大切にされているように錯覚してしまう。
「……こんなの、わたしも、勘違いするよ」
「……いいよ」
少しの間の後、耳元でそう呟く山田くんの声はひどく優しかった。
「……な、なんで、そんなこと言うの」
「そんなの、好きだからだろ」
いつもの優しい声で、同じ調子で、山田くんが言葉を紡ぐ。その言葉に驚いて、出ていた涙がぴたりと止まった気がする。抱き寄せられているせいで、山田くんの顔は見えない。いったい、彼は今どんな表情をしているのだろう。
「この一ヶ月、ちゃんが来るの、ずっと待ってた。連絡先も家も知らねえからこっちからはなんもできないし、仕事忙しいのかとか、体調崩したのかとか、連絡先交換しておけばよかったとか、毎日考えてた。……最後の日、様子がおかしいの気づいてたから、あの時ちゃんと声かけてればよかったって、後悔もした。だから、次会えたら絶対言おうって思ってた。後悔しないように」
そうして、山田くんがひとつ息を吐いた。ゆっくりと身体は離れて、ようやく山田くんと視線が合う。
「好きだ。ちゃんのこと」
その表情は、いつものような笑顔ではなかった。引き結ばれた口許にまっすぐな瞳は真剣で、からかうまでも誤魔化すまでもなく本気だということがわかってしまった。
わたしはどう返事をすればいいのかわからずに、山田くんを見つめたまま突っ立っていた。無言の時間が、永遠のように感じられた。
「好き」
「……お客さんみんなに言ってるんじゃなくて?」
「なんだよそれ。わりと最大級に勇気出した告白なのに、ひっでえな」
処置なしとでも言いたげに大袈裟なため息をついて、拗ねたように唇を尖らせる山田くん。怒らせてしまったかもしれないと思ったわたしは、慌てて弁解するように口を開いた。
「だって、誰にでも笑顔だし、優しいし」
「まあ、お客さんに連絡先聞かれたりするとどうしても強く断れないから、へらへらやり過ごして、結果思わせぶりな態度になったのは反省してる。マスターにもちょっと怒られたし。……でも俺、ちゃんに対しては、営業スマイル向けてることなんてなかったんだけど」
なんだか子犬みたいな少し寂しそうな瞳と視線が絡まる。それでも疑り深いわたしはまだ信じられずに、恐るおそる、覗き込むように山田くんの赤と緑の瞳を見つめた。
「……じゃあ、好きって、ほんとうに」
「だから、言ってるだろ。俺そんなに信用ないか?」
「店員さんとお客さんじゃなくて?」
「おう」
そうだよと微笑む山田くん。その笑顔がやっぱり好きだなあなんて、呑気な感想を抱いた。そうして、言わなければいけないと、思い立つ。わたしも、ちゃんと、自分の思っていることを伝えないといけない。
「あの、」
「うん」
「わたしも、好き」
ぶはっと、山田くんが噴き出した。先程までの神妙さが嘘みたいにケラケラと笑い声が上がる。
「ちゃん、今そのタイミングだったわけ?」
「へ、変だった?」
「いや、まさかの返事が今来たからびっくりしただけ。マジでおもしろいな」
きれいな瞳にうっすらと滲んだ涙を親指で乱雑に拭って、山田くんは、またおかしそうに笑い声を漏らした。
心の中でたくさん考えた結果、伝えるべき言葉は、たった一言で充分だと思った。山田くんのことが好きだって、それだけで、これまでのわくわくした気持ちやもやもやした気持ちが全部集まっていると。
「来年は一緒に行こう」
「え?」
「今年は花火行けなかったから。な、約束」
ちゃんと覚えていてくれたんだという嬉しさが込み上げる。山田くんの言葉に頷いて、我に返って漸く、そういえばここは店先だったなんて2人して慌てだした。幸い他に人はいなかったけれど、明らかに喫茶店のスタッフとわかる格好の山田くんが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
「あー、と、今時間あるか?」
「うん」
「じゃあ、寄ってけよ。今日はケーキあるから。試作だから美味いかわかんねえけど」
「食べたい!」
にっこり笑った一郎くんに、いつもの席にどうぞと店内に入るように促される。途端に柔らかいコーヒーの香りが鼻先を擽って鼻腔に広がった。キッチンにはマスターの姿も見える。
わたしはいつものように、カウンターの左から二番目の席に腰かけた。