プレーン・スコーン



 ドアベルをカランカランと軽快に鳴らしながら、今日も今日とて終業後に一郎くんの喫茶店へ顔を出すと、カウンターには一郎くんではなく乱数くんの姿があった。

「あ、ちゃんいらっしゃ〜い。久しぶりっ」
「あれ、ひさしぶりだあ!って、今日一郎くんは?いないの?」

 再会を喜びあう間もなく、すかさず一郎くんの所在を尋ねるわたしに、乱数くんは処置なしと言わんばかりに肩を竦めてみせると、目を細めてにっこりと笑いながら細い指でカウンターの奥を指差した。つられるようにひょいと覗き込めば、キッチンでオーブンの中をじいっと真剣に覗き込んでいる一郎くんの横顔があって思わず「わ」と声を漏らす。

「いるけど、ちょっといまオーブンとにらめっこしてるとこ。でもすぐ終わるから座って待っててよ」

 と言って、乱数くんはいつもわたしが座っているカウンターの端の席を勧めてくれた。ありがとうと一言返してから床に鞄を置いてスツールに腰掛ける。
 それにしても、彼とは確かに随分と久しぶりに会ったような気がする。

「ねえ、乱数くん、またどこか行ってたの?」

 カウンターに肘を付いて少し身を乗り出すようにして訊けば、乱数くんはペーパーコースターをわたしの前に置きながら頷いた。

「ん?ああ、そうそう、茶葉の仕入れにね。イギリスで買うよりもさ、直接現地に行った方が安く手に入ったりするから」

 一郎くんのかつての仲間だという彼はいつもいろいろなところに行っている。今の本業はファッションデザイナー兼カメラマンなのだそうだけれども、いかんせんやる気のある時とない時とで活動具合にムラがあるのだそうだ。ちなみに、活動的なスイッチが入るのは大体五年に一度くらいらしく「乱数のやる気は、オリンピックよりも久しく巡ってこないから」と一郎くんが以前呆れたように言っていた。
 そして、本業に精を出していない多くの間を彼はこの店で使っている茶葉や珈琲豆の仕入れに海外へ赴いたりこの近くに借りているアパートに引き篭もって過ごしたりしているらしい。一郎くんが忙しい時にはこうして店を手伝うこともあって、傍から見ればふたりは仲の良い兄弟に見える。もちろんふたりは兄弟ではないし、そのうえ五つも歳が離れているのに、なんとも不思議なものだ。

「へえー、現地って、インドとかスリランカとか?」
「そうそう、あと中国とかね」

 そんな歳上の乱数くんに一郎くんがため口をきいている件に関しては、一度乱数くんに尋ねたことがあるのだけれども、なんだかうまくはぐらかされてしまった。わたしも初対面の時は敬語を使っていたものの、すぐにすっぽりと抜けてしまったのであまり人のことは言えまい。彼のフランクでどこか掴みどころのない飄々とした人柄も一因としてあるのだろう。一郎くん曰く、彼には殆どの人が敬語を使わないらしい。
 そういえば、わたしが会ったことのある共通の知り合いで、乱数くんに敬語を使っている人って見たことがないなあ。一郎くんの弟さんたちですら、乱数くんにはため口だったかもしれない。
 わたしが脳裏でぼんやりそんなことを考えていると、乱数くんは相槌を打ちながらレモン水を注いだグラスをコースターの上にことりと置いた。水面に浮かべられた輪切りのレモンがゆらゆらと揺らめいている。ひとくち含めば、喉を通る冷たさとほのかな酸味に疲れがすうっと引いていくような気がした。

「乱数くん、言葉わかるの?」
「僕を誰だと思ってんのちゃん」
「飴村乱数様」
「そうそう。ジェスチャーと気合があれば言葉なんてわからなくたって余裕だから」
「あ、なんだ、結局堪能なわけじゃないのね」
「だってさあ、メジャーな国ならまだしも、永住するわけじゃないならそんなガッツリ語学の勉強しないでしょ。スリランカなんて何語かも知らない、スリランカ語?」
「さあ、わたし行ったことないからわかんない」

 どこまでいっても器用な乱数くんはお手伝いに徹している。当人曰く、ここはあくまでも一郎くんのお店なので「やろうと思えばなんでもできちゃうけど、なんでもはやらないようにしてんの」らしい。なので、どれだけお店が忙しくなっても決して紅茶や珈琲を淹れたりはしない。その代わり、お客さんが待ちくたびれてしまわないように、ほどよいおしゃべりを提供する。
 人の心を開くのがうまい聞き上手の一郎くんと、口から先に生まれてきたような乱数くん。本当によくできたひとたちである。

「そういえばちゃん、一郎のナポリタン、食べた?」
「え?あ、うんうん!食べた食べた。すごく美味しかったよ」

 にこにこと、底の見えない笑みでそう訪ねる乱数くんに、わたしは素直に思った通りのことを返した。すると、乱数くんは「へえー、そっかあー。ねえ!一郎!どうせ聞いてるんでしょー?よかったねえ」などと、奥で相変わらずオーブンを覗き込んだままの一郎くんへ声を掛ける。一郎くんはオーブンに近すぎるせいか真っ赤になった顔を頑としてこちらへ向けようとはしないまま、オーブンに向かって声を荒げた。

「うるさいな乱数!き、聞こえてなんてない!」

 その剣幕は、まるでオーブンの中に乱数くんがいるかのようだった。もちろん乱数くんはそんな灼熱の個室に籠っているわけではなくて、わたしの目の前のカウンターにちゃんといる。

「うっわ、なんだよ大きい声出して。ちゃん以外お客さんいないからいいものの」
「あれあれ?わたしはお客さんじゃないのー?」
「あはー!ちゃんはもう、身内みたいなもんじゃないの〜」
「まあ、光栄」

 レモン水をもう一口すすりながら、ところで一郎くんは一体なにを焼いているのだろうかと気になった。キッチンから流れてくる空気からほのかにいいにおいがするような気がするけれども、この店はいつも大抵いいにおいをさせているのでいまいち自信が無い。
 なにか、クッキーやスポンジケーキの焼けるような、ほんのりと甘い匂いだ。

「一郎くんは、なにをしているの?」
「ああ、あれはねえ──ほら、ちゃんてさ、焼きたてのスコーン、食べたことないでしょ?」

 いつも、一郎くんは朝とお昼過ぎの二回スコーンを焼く。遅めのモーニング用と、アフタヌーンティーやクリームティー用の二回。そして、スコーン自体は何度も食べたことがあるけれども、常連のおばあさんのお気に入りだという焼きたてのスコーンというものは、そのどちらの時間もわたしは仕事中のため食べたことがない。そういえば、そんなことを先日ここでうらやましいだのわたしも食べたいだのと恨めしげに話したような気がする。

「まさか!」
「そう、そのまさか。ちゃんに焼きたてのスコーンを食べさせてあげたいって、いきなり張り切っちゃって」

 乱数くんが若干おおげさに肩を竦めてみせたのとほぼ同時に、オーブンからチンと気持ちの良い音がして、次いで出来た!という一郎くんのうれしそうな声が聞こえてきた。その様子に乱数くんは肩を竦めたまま、わたしはレモン水のグラスを口元に運んだままふっとちいさく笑みをこぼした。なんてうれしそうな一郎くん。一郎くんがうれしいと、みんながうれしくなるのだ。
 焼きたてのプレーン・スコーンの乗せられた天板をミトンで掴んで、一郎くんがカウンターの中へ戻ってくると、すぐさま乱数くんがケトルに湯を沸かす。すると一郎くんはそこで初めて「あ、」と気づいた様子で、戸棚からいくつかのカップに手を伸ばしてはやめを繰り返して、今日の紅茶に似合いのひとつを選んだ。

「ごめんさん、スコーンの焼き加減に夢中になって、すっかり注文聞きそびれてた……」
「ううん。いいの。それに、いつも一郎くんのチョイスに任せっきりだし」
「なら、今日は少し冷えるし、アッサムをミルクティーにすんのはどうかな」

 スコーンとの相性も悪くない、と頷く一郎くんに「じゃあ、それで」と言えば、いつもどおりに「わかった」と言って彼は朗らかにやさしく微笑んだ。
 その笑顔を見ているだけで、今日一日、否この一週間の疲れがすべて吹き飛んでしまうんじゃないかと思えるのだから不思議だ。やさしい微笑みと、温かなミルクティーと、焼きたてのスコーン。これ以上の幸福なんて、しばらくは望めそうにない。
 あつあつのスコーンをざっくりとふたつに割って、たっぷりのクロテッドクリームと一郎くんお手製の甘酸っぱいイチゴジャムをつける。初めて食べた焼き立てのプレーン・スコーンは、素朴で、あったかくて、とってもやさしい味がした。

「おいしい、美味しいよ一郎くん!こんなに美味しいスコーン食べたことない」

 わたしがあんまりにも感激して興奮しながら言うものだから、一郎くんは照れ臭そうに鼻の頭を掻きながら顔をくしゃくしゃにして笑った。

「よかった」

 なんてうれしそうな一郎くん。一郎くんがうれしいとみんながうれしくなるのだ。だからどうか、わたしがうれしいと一郎くんもうれしくなってくれたなら、そうしたらわたしも、もっともっとうれしいんだけどなあ、なんて。そんなことはとてもじゃないけど照れ臭くって言えやしないのだけれども。
 こっそりと心の中でこぼした過ぎたる願いが、もしや口をついて出てしまっていたのかと慌ててしまうようなタイミングで、一郎くんは頬を真っ赤に染めて宣った。

さんが嬉しいと、俺も、その、嬉しい」
「う、うわわ……っ!」

 どくり、と心臓が高鳴る。思わず間抜けな声をあげて、ぽろりと指からすり抜けて取り落としそうになったスコーンを慌ててキャッチした。隣で呆れたような眸でわたしたちを見つめている乱数くんなんか、無視だ、無視。はやく言わなきゃ、と急かすようにばくばくと拍動を早める心臓に、思いにぐいぐいと背を押されて、同じくらいに頬を染めたわたしもまた、年甲斐もなく必死になって言うのだった。

「わたしも、あの、一郎くんがうれしいと、ね、わたしも、うれしいよ」
「え、なに、きみら似た者同士だったの?うわ、うぜえ」